愛の仕事がとる主なかたちは、関心である。
人を愛するとき、われわれはその人に注意を向ける。その人の成長に関心を持つ。
自分を愛していれば、自分の成長に関心を持つ。人に関心を持つこととは、その人に気をつかうことである。
M・スコット・ペック
誰かを愛する。そして、その愛が終わるとき。
それは、もう自分が「この人のことを好きではない」と感じるときである。心からもう、その人のことがどうでも良くなったときである。
今何をしているか。誰といるのか。今度の週末はどうするのか。
その人のことが何もかもがどうでもよくなって、次第に頭に浮かばなくなる。そしてやがては、全く関心を失くしてしまう。
これこそがまさに、本当の意味での愛の終わりである。
それまでは愛しているがゆえに、その人のことが気になっていた。しかし、今ではまるで赤の他人のように、どうでもよい。
それは一言で表現すると、「無関心」という状態だ。
この意味で、「愛の反対は嫌いではない。無関心である」という偉人の教えは、本当に納得できる。
そう、その人のことが完全にどうでもよくなってしまったとき。そこにもう、愛はない。
私たちは、愛する人に関心を払う。そのときは驚くほどの記憶力を発揮し、どんな小さなことでも、その人のことを知ろうとする。
しかし、「もう私はこの人のことを愛してはいない」ということに気づいたとき、すべてはどうでも良くなる。
かつて愛した人はもはや、赤の他人であり、いてもいなくても変わらない、存在に成り果てる。
だから、どこで何をしていてもどうでもいいし、自分には関係ない。
この意味で、まだ「嫌い」という感情が残っているうちは、まだ愛はある。なぜなら、相手に対して関心を抱いていなければ、「嫌い」という感情は湧いてこないからである。
しかし、嫌いを通り越してどうでもよくなってしまったとき。そのときはもう、手遅れである。
一つの愛の終わりを受け入れて、次へ進んでいくときである。
出典
『愛すること、生きること』(創元社、2010年)