絶対に合わない人に自分を合わせるという不毛な努力

自分は自分、人は人

世の中、一番面倒なのは人間関係である。

人間関係のなかには、最初から合う人。どう努力しても合わない人がいる。

その原因は遺伝子なのか、感性の違いなのか。その理由はハッキリしない。ただ分かることは、この人は合う。この人は合わない。その現実だけだ。

例えば、合わない人と一緒にいると、何から何まで、ちぐはぐでストレスがたまる。ちょっとした冗談さえ、「ムカッ!」と来ることも珍しくない。

それこそが相性の結果なのかもしれないが、理由が何にせよ、合わない人は合わない。だから、人間関係は難しい。

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現実的なのは大人の付き合い方

普段の生活のなかで、自分とどうしても合わない人と付き合わなければならないことになったとき、そこには対処法が2つある。

1つは、大人の振る舞いをすること。つまり、一応は最低限接することは接するけど、壁を作って、それ以上は踏み込ませない方法だ。

もう1つは、完全にその人と距離を置くことである。

まるでその人が存在しないかのように振る舞う方法で、実際のところ、これをするのは現実的には難しい。

それとは別に、一番最悪なのが、「努力してこの人を理解しよう。仲良くしよう」という相手への迎合である。

それはまさに不毛な努力と言ってもいい。

理解できない人は理解できない

もし人が努力によって完全に分かり合うことができなら、世の中はもっと住みやすい場所になっている。

しかし実際は、様々な対立がある。多くの人が人間関係で悩み苦しんでいる。それは単純に言って、世の中には分かり合えない人がいるからである。

なぜなら人はそれぞれ、生まれも育ちも立場も違う。努力すれば分かり合えると考えることこそ、まさに傲慢なのだ。

つまり理解できない人は理解できない。それでいい。その方が、相手に対して余計な期待を持たずに済む。

だから大人の対応ができる。それは、「分かり合えない」という前提があってこそのものである。

きれいごとはいつも耳障りが素晴らしい

世の中にはいろいろなきれいごとがあるが、なかにはとんでもなく有害なものがある。

そのきれいごとを信じるがあまり、日常生活が恐ろしいほど不幸になる。そのことについては、ハッキリ認識して損はない。

「努力すれば分かり合える」というのは、まさにそれである。

現実は、どれだけ言葉を尽くしても、丁寧に相手を理解しようとしても、どうしても分かり合えない人がいる。

むしろ、相手を理解しようとすればするほど、その優しさに便乗されて、相手によって傷つけられてしまうことも少なくない。

だから合わない人はやっぱり合わない。

こういうことを表立って言う必要はないが、きれいごとはきれいごと。現実は現実。それを認識するだけの客観性は持ちたい。

人間関係はえこひいきしていい

もし私たちがこの世の中で、どんな人とも分かり合い、そして、お互いが幸せになれるように生きていくことができるとしたら、それはどれだけ素晴らしいことだろうか。

くだらないことで傷つき、傷つけられることもないし、世界が皆友だちばかりになる。そうすれば、世の中はもっと平和で、素晴らしい世界がやってくることは間違いない。

しかし親と子。夫婦。友人。上司。同僚。

現実にはいろんな人達がいて、彼らとまっすぐに付き合おうとすればするほど、「理想は現実とは違う」ということを知ることになる。

そして、どうしても合わない人がいる一方、理由もなく、合う人もいる。人生最優先で大切にすべきなのは彼らである。

そう、人生において、人間関係はえこひいきしていいのだ。

合う人は大切にして、合わない人は距離を置く。たったそれだけでいい。誰もが誰も、平等に接する必要などないのだ。

最後に

誰もみな、平等に接する必要はない。嫌なもの嫌。合わない人は合わないから距離を置く。それで十分なのだ。

私たちは人生で、マザー・テレサのようなどんな人にも愛を注ぐ聖人を目指す必要はない。

今、自分の人生でできる限りの最善を尽くせればそれでいい。そして、自分が大切にしたいと思う人を大切にする。

たったそれだけで十分なのだ。

無理に自分を捻じ曲げて、合わない人に自分を無理に合わせる。そんな不毛な努力をする必要はない。そして、人から無下に傷つけられる理由もない。

世の中、いろんな人間関係があるけれど、やっぱり合わないものは合わない。それでいいのだ。