人生においては、自分の努力によって変えることができることと、いくら努力しようが変えることができないことがある。
例えば生まれ。
どんな親のもとに生まれ、どんな遺伝子を引き継ぎ、どんな容姿、性格、能力を引き継ぐのか、自分で決まることはできない。
そしてそれらは、生まれつき与えられた条件となって、あなたを良い意味でも悪い意味でも、縛る枷になる。
だからこそ、人生において大切なのは、自分の努力で変えられることと、変えられないことを見分け、それに応じて柔軟に対処していくことである。
この意味において、人生においてしてはいけないことの一つは、人の気持ちを自分の努力で変えようとすることである。
人は変えられないものの代表
人類がこの世で登場して以来、幾多の夜をまたぎ、多くの男女が、いかに人の気持ちがままならないものか、多くの涙を流してきた。
それは、今の時代も決して変わることのない、不偏のものである。
例えばあなたはある人に恋をしている。その人が自分のことを好いてくれて、「一緒に人生を生きてくれたらどんなに幸せだろうか」といつも考えている。
そこであなたはその人が自分を愛してくれるよう、甲斐甲斐しく努力をする。
しかし先に述べたように、人の気持ちは努力で変えることはできない。あなたがいくら相手に振り向いてもらおうと努力したところで、状況が良くなる可能性はほぼない。
むしろ、あなたが相手に好きになってもらおうとすればするほど、結果はむしろ逆。相手からは軽んじられ、そして、いいように扱われ、最後はあなた自身が傷つく。
現実はいろいろ皮肉だ。何とも思ってもみない人からは好かれて、好きで好きでたまらない相手からは嫌われる。
なぜこうなるのかは分からない。しかしそういうことはよく起こる。だから人は常にこう言う。
「最後は縁だ」
と。
なぜ最後には「ご縁」なのか
この世でどこの誰とご縁があるのか。
そのことだけは、人知では計り知れないものがある。例えば偶然出かけた旅先である人と出会う。
その場はたったそれだけでしかなかったが、普段の生活に戻ったとき、再びその人と再開し縁を感じて一緒になる。
いろんな人の馴れ初めを聞くと、案外このような、「ご縁」としか言いようがない話を結構聞く。
むしろ、「普通に恋愛して、普通に結婚した」と思える人たちの話ですら、そこには縁を感じずにはいられない、何かがある。
だから自分が好きだとかどうだとか、もしかしたら、そういうことは人生において、あまり意味はないのかもしれない。
それによりももっと大切なのは、ご縁があるかどうか、その一点なのかもしれない。
出会いの裏には必ず必然性がある
日々何気なく暮らしているなか、なぜか一緒になった。いろんな出会いがあったけれども、結局つながったのはこの人だった。
もちろん気になる人はいた。しかしその人とは一緒になれなかった。ご縁がなかった。
そう考えたとき、結局人生においては出会うべき人とは必ず出会い、そこで必要な関係を築くことになる。
なぜならそれが、お互いが出会った必然的な理由だからである。
つまり、お互いに出会い、何らかの経験を共有する必要があったからこそ出会いがあった。これこそがきっと、ご縁なんだと思う。
だから、一緒にいる必然性がない相手はいくら努力して相手を振りまかせようとしても、そのすべての努力はムダになる。
逆に、あなたにその気がなかったとしても、あなたがその相手と一緒にいるべき理由があるなら、あなたの意志に関わらず、一緒にいることになるのかもしれない。
だから世の中では、「なんであの2人が?」というカップルが生まれるのだ。
与えられたご縁を大切にする
思い通りになること、そして思い通りにならないことを知ることは、ある意味とても残酷である。
心から欲しいと思っている。しかし何をどう頑張ってもどうにもならない。ただこういうときは常に長い目で見たい。
1年くらいならまだ諦められないかもしれない。しかし、2年目になると、だんだんと自分の気持ちが変わっていることに気がつく。
そして3年目になれば、なぜあんなにも執着していたのか、すっかり忘れてしまう。そのときになって気がつくのは、今目の前にいる人の大切である。
そう、あなたの人生において本当に大切なものは常に目の前にある。そしてそれこそが、あなたの人生において、大切にする必要があるものである。
それを絶対に見逃してはいけない。そしてそれを大切にしていけば、きっといつか、理由が分かる。
「これで良かったんだ」
と、きっと納得できる。
そしてそのときあなたは、「縁」という言葉の意味を、深くかみしめることになるだろう。