幸福とは、思考の停止であり、視野の切り捨てであり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である。
世の中には、この錯覚に陥っている人と、陥りたいと願う人と、陥ることができなくてもがいている人と、陥ることをあきらめている人がいる。
ただそれだけである。
中島義道
幸せとは100%錯覚である。現実には存在しない。
世の中にはこんなことを言う人がいるが、幸せ=錯覚というのは言い過ぎとしても、幸せはそんなにどこにでも溢れているものではない。
それだけは確かなのかもしれない。
どこで幸せは見つかるのか
幸せはずっとそこに存在しなくて、見つかったり見つからなかったり、とても気まぐれで、安心できない、不安定なもののように思う。
日々の暮らしのなか、気がつけば見出すことができるときもあるし、いくら目を大きく見開いて探しても全然見つからないときもある。
幸せなんか考えずにいると、ひょこっと見つかるときもある。
幸せはそんなものだから、幸せはもしかしたら個人の錯覚で、もしかしたら存在自体怪しいものなのかもしれない。
だから、幸せになろうとか、幸せを見つけようとか、そんな必要は全然ないのかもしれない。見つかればそれはそれで良いし、見つからなければそれもそれでいいのだ。
別に幸せでなくてもいい
幸せが見つからないからといって、人生オワコンなわけでもない。
幸せ云々は置いておいて、悪いこともいろいろあるけれど、生きていれば、そこそこ楽しく、いいこともある。
まぁ結局は、幸せ探しで人生気張らず、日々を楽しんでいけばいい。正確には、楽しもうと心から覚悟すればいい。
そうすれば人生幸せでも不幸でも。
生きる意味が実感できる人生を送ることができる。生きていくことはそれ自体。意味があることなのだから。
出典
『不幸論』(PHP研究所、2015年)