会社にとって必要な人間なんかいません。辞めれば、代わりを務める誰かが出てくる。組織ってそういうもんじゃないんですか。
坂戸宣彦
仕事はとりあえず3年。
その組織、業界に馴染めるかどうか。自分がその仕事でやっていくことができるか。3年経てばおおよそのことが分かる。
そしてそのとき、「自分はどうしてもこの会社で働くのは嫌だ!」と確信したとき。仕事なんてさっさと辞めていい。自分の代わりは腐るほどいるのだから。
「愛社精神」が必要だった過去の時代
かつてこの国ではそれを信じ、愛社精神を持って組織に所属していた男たちがいた。
彼らのなかでも、特に会社人生で成功した人は、「自分は○○会社で部長をしていたんだ」など、過去の栄光を懐かしむように語りたがる。
この手の老人にからまれたら最悪である。いかに自分の人生は栄光に満ちていたか。会社に必要とされ活躍していたか。多くの部下に尊敬されていたか。
こちらの都合も考えずに、一方的に武勇伝を聞かされるはめになるからだ。
会社をやめればただの人
しかし彼らは忘れている。会社は既に退社した彼らの実力や人望を必要としていない、ということを。なぜなら彼らは会社にとっては遠い昔の「過去の人」だからである。
まともな人なら知っている。一度会社を辞めてしまったら最後、自分がもう会社とは何の関係もない人であり、会社は自分を必要としてないということを。
なぜなら会社を辞めた後は日々、それを否応なしに実感する出来事が起こる。
退社すれば会社の付き合いは一切なくなり、かつて自分に頭を下げてきた人たちは雲散霧消。久々どこかで顔を合わしても、かつてのような付き合い方をしてくれない。
そんな現実に直面すれば誰だって分かる。結局会社での付き合いなどすべて仕事。○○会社の誰々として関わっているにすぎないという事実を。
武勇伝は兵どもが夢の跡
だから勘違いしている人は痛い。退職しても、「俺は○○会社の部長だったんだぞ!」と激昂し、周囲の人間をうんざりさせる。
しかし現実は明らかだ。肩書がなくなれば社長だろうが部長だろうが関係ない。自分が退職した後はすぐ別の誰かが後任になり、会社はそれで、回っていくのである。
だからこそ会社が必要としているのは特定の誰かではない。そのポジションをきちんとこなせる人であるならば。代わりはいくらでもいるのが現状なのである。
いくら誇りを持って働こうが。それは役割。会社を回すための歯車でしかない。それを勘違いして「自分は会社に絶対必用な存在である!」と思い込むのはただただ痛々しい話である。
価値観は着実に変わりつつある
この意味で、若い人が現実を直視して、会社で働くことについてドライなポジションで向き合おうとしている傾向やそれを許容する時代の流れそのものは、非常に素晴らしいことである。
定時退社。残業拒否。社内の飲み会なんて即不参加。そして自分の人生。自分の時間を大切にする。これは本当に素晴らしい話である。
仕事は仕事で責任は果たしつつ、もっと自分を大切にする人々が増えていくならば。
会社に縛られる長時間労働が当たり前の時代が終了。日本の生産性もアップ。仕事と人生のバランスが取れた、より素晴らしい未来が待っている可能性があるからである。
会社は家族ではない
結局、仕事は仕事。
どんな会社に勤めて、そこでどれほど活躍し、有名になったとしても。会社はもはや、家族ではない。クビになるときはクビになるし、人生を台無しにさせられることだってある。
それならどうして、一つの仕事。一つの会社にこだわる必要があるだろう?
大切なのは、お金を稼いで生きていくこと。何らかの仕事をして、社会に貢献すること。それさえできれば、どの会社で働こうが、形式は関係ない。
大切なのは自分がどのように働き、どのような価値を世の中に提供するか?仕事をする意味について、極めて当たり前の話に帰結していく。
最後に
だから合わない仕事を続ける義務はない。
自分の人生を台無しにして働いたところで、一体何が残るのだろう。それなら年収ダウンでもなんでもいいので、もっと自分を大切にするというチョイスもある。
仕事の代わりならいくらでもいる。しかし自分の人生を歩む代わりは自分以外にはいない。だから仕事なんてやめていい。「もう無理だ・・・」と思ったら、ためらうことなく、辞表を出していい。
あなたが辞めてもその仕事は、すぐに別の誰かが引き継ぐ。そういうものである。
出典
『七つの会議』(集英社文庫、2016年)