先日、小林一茶の本を読んだ。
小林一茶は、今からおよそ200年前の江戸時代末期に生きた人物である。3歳で母親を亡くし、長男でありながら14歳で家を出され、25歳で俳人を志すも、長らく大成しなかった。
しかし50歳を過ぎて結婚し、俳人として名を知られるようになった遅咲きの人物である。
一茶は、ようやく手に入れた家庭を持ち、俳人としても成功し始めた矢先に、幼い子どもたちや妻を次々に亡くし、さらには家まで火災で失うという不運に見舞われた。
それでも、人生の終わりまで「生きること」への意欲を淡々と持ち続けた、極めて強靭な心の持ち主である。
そんな一茶が、人生をどのように捉えていたのか。彼の本を読み、初めて知り強く惹かれた言葉がある。それが「自然法爾(じねんほうに)」という言葉である。
はじめに
「自然法爾」とは、鎌倉六大仏教の一つである浄土真宗の開祖、親鸞の仏教思想を背景とした言葉である。その意味するところは、「そうなるようになる道」、すなわち「あるがままに生きること」の実践にほかならない。
私たちはそれぞれの人生において、さまざまなことを望む。そして、望んだ現実が実現した人生こそが「成功した」人生であり、「幸せな」人生であると考えがちである。一方で、望んだことが叶わない人生は「失敗した」人生であり、「不幸な」人生だと捉えてしまう。
しかし、本当にそうなのだろうか。考えてもいなかった人生、そうなるしかなかった人生は、本当に失敗であり、不幸なのだろうか。こうした問いに対する一つの答えこそが、「自然法爾」という考え方なのである。
「◯◯したい」「△△になりたい」といった人為があっても構わない。ただ、それらをいったん脇に置いてみる。そして、今ここにある人生を、あるがままに認め、受け入れる。そこに「良い」「悪い」といった評価を挟まない。
今、ここにある「なるようになっている人生」を、人為を手放して、とりあえず生きてみること。それこそが、「自然法爾」の生き方である。
「自助努力」だけでは生きられない現実を受け入れる
私たちが生きる現代社会では、何かと「自助」が求められる。人生の困難に直面しても、自ら道を切り開き、誰にも依存せず、自分の足で堂々と立つ。そんな生き方こそが素晴らしい生き方である――そのような認識を、あなたも持っているかもしれない。
確かに、自分の道は自分で切り開くことが大切であり、「人生は自分次第」と考えることは、「強い自分」を形づくるうえで不可欠な姿勢だと私は思う。依存するよりも自立していたほうが、自分に誇りを持ちやすいこともまた、確かである。
だが同時に、私はこうも思うのだ。「本当に私たちは、自助努力によってすべてを克服し、“めでたしめでたし”の人生を送ることができるのだろうか?」と。
人生には、どうしようもないことが数多く起こる。日々、私たちは年を重ね、いま出来ていることも、いずれ出来なくなる。私たちの意思とは関係なく、不可逆な出来事が日常的に訪れる。それもまた、生きるという現実の一部である。
思えば、自分の「強さ」と向き合うよりも、自分の「弱さ」と向き合わされる機会のほうが、人生には圧倒的に多いのではないだろうか。
なぜなら、人生そのものが、最初からすでに、生きていくための条件が人によってあまりにも違いすぎるからである。そして、時代や運といった予測も計測もできない要因によって、私たちの人生は簡単に振り回されてしまうからである。
だからこそ、自助によって自分を救おうとする姿勢はもちろん尊い。しかしその一方で、人生は必ずしも思い通りになるものではないという事実を受け入れ、人生そのものを「あるがまま」に認めることもまた、大切なのではないだろうか。
人生はなるようにしかならない。だからこそ
たとえば日本には、「縁」という言葉がある。縁があれば人はつながり、縁がなければつながらない。そうした感覚を、私たち日本人は自然に受け入れてきた。
ある人が気になる。けれど、その人にはすでに想い人がいる。そんなとき、「縁がなかった」と受け止めることは、自分の努力不足を意味するものではない。それは「そういうもの」と受け入れるべきことであり、決して敗北ではない。
しかしそこで、「私はあの人を振り向かせてみせる。私の意思と努力で、相手の気持ちも変わるはずだ」といった、方向を誤った自助努力を重ねてしまったら、その先にあるのは、ストーカーという悲劇的かつ相手にとって迷惑極まりない未来である。
この例はやや極端かもしれない。だが、人生においては、人それぞれ「縁があること」と「縁がないこと」が確かに存在している。目標を掲げ、意図を持って努力し、理想を現実にしようと頑張ることは、もちろん素晴らしい。それはそれで良い。
けれど、それだけが人生の「正解」であると考えるのは、少し違うのではないかと思う。むしろ、思いがけない道や、そうなるしかなかった道にこそ、人生を生きる意味が宿ることもあるのではないかと、私は思うのだ。
最後に
五十を過ぎてようやく得た、自分の家族。しかし、生まれた子どもたちは次々に病で亡くなり、妻も病に倒れ、さらには家までもが火事で焼けてしまう。
それはもはや「逆風」という言葉では言い表せない、人生の理不尽である。そして、人生とはしばしば、こうした理不尽に見舞われるものでもある。
いくら自助努力によって素晴らしい現実を手に入れたとしても、それはあくまで「そのとき」の話であり、「それから」起こる出来事は、必ずしも自助によって制御できるものとは限らない。
むしろ、自らの意思や努力ではどうにもならない現実に直面することの方が多いのが、人生なのかもしれない。そうした現実と折り合いをつけながら、自分の生を全うしていくための姿勢こそが、「自然法爾」なのだと私は理解している。
そして、そこにあるのは決して諦観ではない。訪れる運命を、積極的に、そして静かに受け入れようとする意志である。
だからこそ、一茶が残した句を読んでいると、その中に明るさやたくましさ、そして力強さが確かに宿っていることを感じる。それはきっと、私だけではないはずだ。
ということで、最後にこの句をもって、この記事を締めくくりたい。
「やせ蛙 負けるな一茶 是にあり」