「石の上にも三年」
「継続は力なり」
「忍耐が結局は成功につながる」
これらの言葉はまったく、正しい。
一定期間我慢し耐える。それによって何かを得たり、身につける。その意味や価値を否定するつもりはまったくない。ただし一方で、私たちは我慢してはいけないことがある。粘り強い努力などせず、今すぐ早急に見切りをつける必要があることもある。
それは、自分が1ミリも適正がないこと。つまり「できる」見込みが限りなく低いことである。たとえば生まれつき苦手なことや、どうやっても自分に適性がないことがそれである。
はじめに
私たちは「努力によってできないことをできるようにする」というサクセスストーリーを好む。そして、すぐに何かを投げ出すことに対して、ポジティブなイメージよりネガティブなイメージを抱きがちである。
繰り返すが、努力の価値は尊い。できないことを努力によって身につけることは素晴らしい。人並みにできないことを、人並みにできるようになることは素晴らしい。
もしかしたら、努力を続けることができるならば、人並みにできないことでさえ、天才レベルにまで上達することができるかもしれない。私たちは意思と努力によって、凡人から天才へと生まれ変わることができるのかもしれない。
ただしそれには、「私たちが永遠に生きることができるのであれば」という非現実的な条件がある。
私たちは年を取らず、1日は24時間では終わらない。それなら、不可能なことでさえ、時間をかけて延々と努力することができる。だが私たちは日に日に年を取る。日々使える時間には限りがある。
だからこそ「望む結果」を得たいなら。よりよい人生を選択したいなら。「何を得るか?」よりも「何をあきらめるか?」を、真剣に考える価値がある。
「できない」ことを「できる」ようにする代償
冷静な現状認識として、私たちにはそれぞれ、できることとできないことがある。そして、できないことを武器にし、それが最初からできる人に戦いを挑んだとしても。勝てる可能性は極めて低い。
たとえばあなたが生まれつき集団より個人行動を好む性格が生まれつき付与されている場合。
あなたはあなたの自助的な努力によって学校や会社組織に馴染み、最低限の社会生活を送ることはできる。しかし、すぐ人と仲良くなり人脈を広げていくことが自然にできる能力を持っている人のように、あなたはそこで、自分の強みを活かすことはできない。
「友だち100人作る能力」を最初から持っている人に対して、「それなら私は友だちを1000人作ります」という勝負を挑んだところで、結果は最初から見えている。これはとてもシビアである。
ここで用意されるのは2つの選択肢
この現実を目の当たりにしたとき、あなたには2つのチョイスが用意される。
1つは、「そうか、私は独りで過ごすのが好きだけどコミュ力を努力で高めて、もっと人脈を広げる努力をしよう。自分の時間を減らして人と会うようにしよう」と考え、自分の弱みを強みに変えようとする努力。
そしてもう1つは、「冷静に考えると、私はコミュ力を高めるより自分の時間を大切にしたい。友だち1000人作る努力はやめよう」と、思い切って自分の強みでないことを切り捨てること。
この2つなのだが、もしあなたがあなたにとって「ベストな現実」を手に入れたいのであれば、後者を選択する方が、あなたが後悔する可能性は低い。
なぜなら、結局最初から苦手なことを努力して身につけたところで、その伸びしろはそれが「最初からできる人」と比べるとたかがしれているからである。
人生をかける覚悟があるか?
生まれつき、アスリートの才能を持つ人にその才能がない人がいくら努力をしたところで、勝てる可能性は極めて低い。
ジャイアンがプロのカリスマボイストレーナーのレッスンを受け続けたところで、人を感動させる一流の歌手になれる可能性はロト7の一等に一発当選するよりはずっと高いだろうが、そのためには尋常ならざる努力と長い時間が必要だろう。
ここで「それでも私はやります。人一倍努力します!」という選択もできる。「私はこれ以外したくありません!」ということに対して、人生をかけて挑戦する覚悟があるなら問題ない。
ただし私たちがこの世界にいることができる時間は有限であることを意識せず、がむしゃらに時間を浪費することに意味があるのか。それでいいのか。その判断は自分自身に委ねられている。
これが「発想を変える」ということ!
もし私たちに無限の時間が与えられているなら。私たちが永遠に若い体を与えられているのであれば。何時間でも、必死になって努力を続け、やがては凡人が天才になることも可能かもしれない。
しかし繰り返す。私たちが生きることができる時間は、限られている。気がつけば1日。1ヶ月。そして1年が過ぎていく。
時間が限られているからこそ、私たちは考える必要がある。限られた時間に何をすれば自分に与えられているものを開花させることができるのか?自分にとって最善の人生を実現することができるのか?この取捨選択の結果こそが、人生の選択である。
この現実を悪く捉える必要はない。必要なのは「何を得るのか?」というより「何をあきらめるか?」という発想の転換である。あきらめるものを正しく選ぶことによって私たちは、自分にとって本当に必要なものを、選ぶことができるのだ。
最後に
私が高校を出て東京で一人暮らしをしていたときのことである。
私は夢を追い東京で暮らしていたが、その夢がその時点で実現不可能であることを思い知らされた。そこで急遽進路を変更し、大学へ入ることにした。それは9月の半ば頃の話である。
志望校の受験は2月の初旬に行われる。おまけに私は一人暮らしのための生活費を稼ぐためにアルバイトをしなければいけなかった。勉強時間はとても限られていた(実際、大晦日の夜10時までその年はアルバイトをしていた)。
そこで私は志望校の入学テストで最低合格点を取るために、「何を勉強するのか?」ではなく「何を勉強しないか?」という発想に切り替えた。
そして、志望校の受験科目のうち最も配点の低く、かつ高校の時から苦手だった古典の勉強を完全に捨てた。かわりに配点が高い英語と自分が得意な日本史に、限られた勉強時間を大きく振り分けた。
その結果、当時代ゼミの偏差値で62だった志望校の志望学部に一発合格することができた。入試の二週間前に行われるセンター試験(当時。今は共通テスト)の結果から見れば「今すぐ志望校を変更してください」というレベルだったにも関わらず、である。
自分にできないことや苦手なことは、努力で多少伸ばすことはできる。だが、そのコスパはとても悪い。人生の時間は限られている。だから努力の「配分」や「方向性」を間違ってはいけない。
それは選択である。望ましい人生をつかむため、何より、自分自身に与えられているものを開花させるための、重要な選択である。