今の現実はあなたの思った通りではないかもしれない。それは悲しいことではなく

窓の外を見つめる

私たちが行うすべての選択の背後に、無数の「捨てられた選択肢」があります。そしてそれらの選択肢のなかには、私たちが今でもかなり魅力的に思うようなものもあるのです。

自分としてはその選択をしたかったのだけれど、周囲の状況などによって不可能だったので、やむを得ずに捨てたのだ、というものでもあるのです。

こうした、すべての「捨てられた選択肢」によって構成される「自分の選択から除外された人生の可能性」は、ユングによるとすべて「無意識」のなかに蓄積されています。

別の選択肢を選び、別の人生を歩んだ「自分」が無意識のなかに住んでいるのです。この選択されることがなかった「別の自分」を、ユングは「影(シャドウ)」と呼んでいます。

齋藤 真行

最近常々感じることが一つある。それは、人生とはいわば「あきらめたこと」によって自分の本当の人生が見つかる、という逆説である。

本当の意味での自分の人生とは、自分の願望が満たされた結果できた人生ではなく、自分があきらめたことやできなかったことによって残された選択によって導き出される、「帰結」と言ってもいいだろう。

それは悪い意味ではない。それはそうとしかならなかった必然なのだ。

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はじめに

私たちはそれぞれの人生で「自分の人生とはこうあるべきである」というイメージを持つ。

それが叶った現実こそが「幸福」であり「勝利」であると錯覚する。それが叶わない現実は「不幸」であり「敗北」であると結論づける。だが本当にそうなのだろうか?

ある時期を堺にして疑問を持ち始めたのだが、結論から言えば自分が人生に抱くイメージと実際の現実は一致しなくてもいい。なぜならそれは、「自分の人生」という本質とは別のものだからである。

簡潔に言うなら、あなたが「理想」と考える人生を生きていようともそうでなくても関係ない。あなたが今、目の前にある環境で最善を尽くし、精一杯生きているなら、それだけで十分なのである。

見たいものが見えなかったとしても、それでもまだ「意味」はある

私たちにはそれぞれテーマが用意されている。それは他人と比較対象する意味も価値もない、あなただけのテーマである。

そのテーマはあなたが今いる現実という場所において強制的に体験させられるものであるが、そこで「良い」や「悪い」、「幸」「不幸」という判断をしてしまうと、今それがあなたに学ばそうとしている、大切な何かを見失う。

そうなるしかならなかった結果、今そこにある現実を「これは自分が見たいものではない」と否定するのは個人のチョイスである。だがここから、今しか学ぶことができない何かを学ぶこともできるのだ。

この人生で本当に大切なこと

長い目で見れば、成功や達成、何でもいいが良い出来事など一瞬の出来事で、人生の大局からすれば、些末なことである。

真に問われるのは何かを成し遂げたこと、というよりは何を経験し、そこから何を学び、その結果あなたがどんな人になったのか、ということである。

人生が順風満帆だったとしても、他人をバカにし不幸にする人になってしまっては。人生が失敗続きでも、他人を妬み足を引っ張るような人になってしまっては。魂が汚れるだけである。

何を成したか。何を得たか。そんなことより、今あなたが人生を生きてきた結果、残された現実という世界の中でこそ気づく必要がある何かに気づく。そしてあなたは学びを得て、成長していく。

長い人生において、本当に、本当に意味があるのは、ただそれだけである。

最後に

必要なものは今ここにある。それはどこか遠くに探しにいくものではなく、今ここにいることを受け入れ、最善を尽くすことによって今ここで、見出すことができる。

今そこにある現実があなたにとって望ましいものでなくても。このように考えることはできる。「今、ここから学ぶ必要がある何かがあるから、この環境が用意された」と。

そしてその意味は将来然るべきときに、明らかになる。

出典

『中年の危機を乗り越える8つの方法』