支配はまず依存ありきなのだ。なぜなら、依存しない真に自由な魂は、支配不能だからだ。
大西つねき『日本人が世界を救う具体的な3つの方法(陽)』より
私たちは、自由を求める。誰かに決められるのではなく、自分で決め、自分の思う通りに現実を生きたいと願う。
だが、その思いとは裏腹に、私たちはしばしば、自分自身や人生を、自分ではない誰かによって動かされてしまうことがある。それどころか、自覚の有無にかかわらず、自ら進んで自由を差し出してしまうことさえあるのだ。
なぜ、そのようなことが起こるのか。その原因を理解するキーワードが、「依存」である。この記事では、自立と依存の本質について探っていく。
はじめに
私たち誰もが、その深層心理に抱いている欲求。それが、「◯◯を満たしたい」という欲求である。
人によって、その「◯◯」はお金であったり、安心であったり、承認であったりと様々だ。だが、ここで重要なのは、「◯◯を満たしたい」という欲求そのものである。
この欲求こそが、それを与えてくれる(と思える)何者かに、自分を差し出し、コントロールされる原因となる。なぜなら、それを与えてもらうことで、「与える者」と「受け取る者」という、依存の関係が出来上がってしまうからだ。
例えば、である。あなたは生活のためにお金を稼がなくてはいけない。そこで、会社で働く。ところが、あなたの上司は、労働基準法を無視するような過剰なハードワークや、コンプライアンス違反の命令をしてくる。
ここであなたが、「私は、ここで働かなくても、別の会社でやっていけます」と、自分を尊重するという選択ができるのであれば、あなたの自由と尊厳は守られる。
だがもし、あなたが「生活のため」にその仕事を「しなければならない」状況であれば、今すぐ会社に辞表を出すという行動を起こすことは難しいだろう。
つまり、あなたは「(お金を得て)暮らしを満たしたい」という欲求のために、給与を支払ってくれる会社と、依存関係を結んでいるということになる。
「私は依存していた」と気づく瞬間
では、なぜあなたは会社を辞めず、そこにとどまるのか。その根底にあるのが、「生活のためにお金を稼がなくてはいけない」という信念である。
「快適に暮らすためには、お金がいくら必要」
「貯金は最低でも◯◯◯◯万円ないと」
「会社に勤めて、給料とボーナスをもらう生活が普通だ」
私たちは、こうした信念によって動かされている。だが、特に意識すべきなのは、「自分が何を求め」「何を人や社会に期待しているのか?」という点である。
それはしばしば、
「○○してくれないと困る」
「○○がないと不安」
といった感情として表れる。それこそが、依存の兆候なのである。
確かに、現代の社会において「お金を持っていない」「安定した収入源が閉ざされる」といった状態が、生活を不便にするという現実はある。
だが一方で、お金への依存に気づき、少しずつそこから離れ始める人々も増えてきている。
たとえば、田舎に引っ越し、最低限のアルバイトをしながら畑を耕し、自給自足を始める人。そこまでしなくても、家庭菜園を始め、食費の負担を抑えることで、お金への不安を自ら和らげようとする人。
依存に気づき、自由を求める人々が、確かに増えつつある。彼らに共通しているのは、たった一つの気づきである。「私は、依存していた」という気づきである。
「自由」とは、誰にも揺さぶられない状態
自由とは、自分で決められる状態を指す。それは言い換えれば、「内的に自立している状態」である。
「誰が私を満たしてくれなくてもいい。なぜなら、私は自分で自分を満たすことができるから。あなたに何かを与えてもらわなくても、私は私に与えることができる」
こうした自立した人は、外部から揺さぶられにくい。
「もうあなたに、給料を払いません」
「もうあなたと、付き合いません」
「もうあなたを、助けません」
こうしたことを言われたとしても、真に自由な人は「失うこと」を恐れない。恐怖によって、「私を満たしてください」と懇願することもない。
だからこそ、誰かに支配されることがない。この意味で、「支配はまず依存ありき」という指摘は、まさに至言である。
私たちが誰かの言いなりになるとき。自分の在り方とは異なる生き方を選ぼうとするとき。その背景には、たいてい、「○○してくれないと困る」「○○がないと不安」といった依存が潜んでいる。
「完全な自由」は幻想かもしれない。それでも人は
何者の支配も受け入れず、自分が自分として在る。誰にも頼らない。依存しない。すべてを自分で決め、それを貫いて生きる。そんな「自由な生き様」は、たしかに理想かもしれない。
だが実際のところ、完全に「誰にも依存しない」状態を貫くことは難しい。私たちは単独で存在しているのではなく、誰かと支え合い、与え合いながら生きているからだ。
生きていれば、誰かに頼ることもある。助けられることもある。寄りかかりたくなる瞬間もある。どんなに自由で自立した人であっても、そうした場面はきっと人生の中にあるはずだ。
だから、依存することもまた、生きることの一部なのかもしれない。問題は、「支配と非支配」のような、つまり自分を差し出してしまうような依存関係に陥ることだ。
真の自由とは、「誰ともつながらないこと」ではない。むしろ、「つながるかどうかを自分で選べること」である。
相手に与えてもらうこともできる。けれど、それがなくても、私たちは自分の足で立っていられる。だからこそ、依存し合うのではなく、対等に助け合うことができる。そんな道も、きっとあるはずなのだ。
最後に
「自分のことは自分で決める」
「◯◯があればいいけれど、ないならないで、それでOK」
そんなふうに、自立した自分を持ちながらも、ときには誰かを助け、そして助けられる。誰かのぐちを聞いたり、誰かにぐちをこぼしたり。それはそれで、とても素晴らしいことだと思う。
自分の道を自分で切り開こうとする気概は、たしかに大切だ。けれど、「自分」にこだわりすぎることで、かえって自分の道を狭めてしまうこともある。なぜなら、この世界は「自分の場所」であると同時に、「誰かの場所」でもあるからだ。
自由と依存のバランスをとること。それはきっと、私たち自身が成長していくなかで、少しずつ身につけていく人生の課題なのだろう。
更に気づきを深めたい方へ
