百敗の上にもう一敗重ねられたところで、何のことがありましょう。
張良
勝負に勝つ人間は常に優れているからこそ勝負に勝つ。成功者には成功すべき理由があるからこそ成功する。普通に考えれば、このような因果関係こそが自然であると私たちは考える。
だが、「歴史」という結果から物事を見てみると、勝者となった人間が必ずしもその力によって勝者となったわけではないこと。成功者が成功に値することをした結果成功したわけではないこと。そんな真実が見えてくる。
はじめに
昔、とある国にこのような男がいた。
男は若い頃からいわゆるチンピラのような生活を送っており、中年になってもまともな暮らしをせず、周囲に世話をかけられながらの生活を送っていた。そんなとき時代は大きく動く。
男の国を支配していた絶対的な権力者が世を去り、国は乱世を迎えた。男はそうした時代の動きに呼応するがごとく、周囲から担ぎ上げられた。そして男は権力闘争にその身を投じていく。
男には強大なライバルがいた。男は常にライバルとの戦いに負け続け、まともな勝負で一度もそのライバルに勝つことはできなかった。常に、自分の輝かしい勝利を想像するのではなく、自分の首が落ちることに怯えていた。
だが最終的に勝者となったのは不敗のライバルではなく、常に負け続けた男であった。
男はライバルとの間で休戦協定を結ぶもそれを破り、不意の奇襲をかける。そこまでしても自らの力ではライバルに勝てず、軍才を持つ協力者の助けを借り、ようやく戦いに勝利した。そして歴史に名を残す大きな王朝を打ち立てた。
「その後男は自分を助けてくれた協力者たちを次々に粛清していく・・・」という余談はおいておいて、男の話は勝者となる人物は必ずしも優れた才能や能力を持つものではなく、何か別の要因によって勝者を勝者たらしめているという結果である。
最終的に勝利を収める絶対条件
男には人並みならぬ人徳があった。人から「この人のために何かしてあげたい」「助けてあげたい」「近くにいれば良いことがありそう」と周囲から思われる何かがあった。それはその男が持つ「徳」であり、誰もが持てるものではないかもしれない。
だがそれよりはるかに重要なことがあるように思う。それは、男は「戦いに負け続けたが生き延び続けた」という事実である。
単純な話だが、人生生きている限りその物語は続いていく。人生何ひとつ上手くいかない。戦いを挑めば負ける。何回挑んでも負け続ける。そんなとき、普通に考えれば「だからあなたはゲームオーバーです」という結論に至るのが自然である。
だが現実は違う。100回戦いを挑み100回負ける。101回目の戦いに挑む。それでも負ける。だが102回目の戦いを挑み、そこで劇的な勝利をおさめる。その結果、すべてが逆転する。そういった不思議な現実もまた、存在しうる。
ただしそれを成すには絶対条件がある。「負けても生き残り、勝負を挑み続けること」である。
いつか必ずうまくいく。その希望と信念を捨てないことが
「本当の失敗とはあきらめに屈した瞬間である」という趣旨の言葉があるが、これはまさに至言である。
そこにある現実は「もうだめです」「終了です」というような「事実」を羅列してくる。その時点においてそれに反論する具体的根拠は持ち得ない。ゆえに、「普通」に考えればもはや現実に成すすべは何ひとつないように思えても当然である。
だが、そんな状況ですらその先に予想された現実が待ち受けているとは限らない。何度負けても生き続ける。「いつかは勝てる」という願いを捨てずに戦いに挑み続ける。すると理屈で考えればどう考えても不思議としか思えない奇跡が起こりうる。
敗北を続けた男が最終的に勝者となり、勝利を重ね続けた男が最後の最後ので逆転され敗者となる。そこにある「現実」はたしかに現時点における「現実」かもしれないが、その「現実」はやがて、変わりうる。
最後に
才能があるから成功し才能がないから成功できない。お金があるから人生がうまくいき、お金がないから人生がうまくいかない。普通に考えれば、このような「因果関係」は自然なように思える。
だが実際のところ、才能があるがゆえに現実をぶち壊してしまう場合もあるし、「無能」と嘲られた人物が「無能」であるがゆえに周囲の力を借りて大きな成功を成し得る場合もある。
戦いに勝ち続けた「負け知らず」の強者が最終的に敗者となり、負け続けた敗者が勝者になることもある。現実は現実だが、その先どうなるかわからない。ただ一つ、生きている限り人生は続く。そして生きるからこそいつか、喜びの日が訪れる可能性が残される。
人生に敗北や失望はつきものである。それと同時に自分自身が人生を捨て去らないかぎり、自分が想像していた以上の勝利や喜びが訪れる可能性が残されている。だからこそ「忍耐」、そして「粘り強さ」が価値を持つ。それらが時を、味方に変えるのだ。
出典
『項羽と劉邦(下)』