正義の宮殿にも往々にして鳥や鼠の糞が落ちているのと同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と香しい涙の果実がかえって沢山に摘み集められる。
永井荷風
作家の遠藤周作さんの言葉だったと記憶しているが、「神様は私たちの苦悩のなかに大切な宝物を包む」という趣旨のことを語られている。確かに人生は不思議なものである。予想外の場所で、想定外のタイミングで得たものを通じ現実が変わった経験が幾度もある。
例えば「もうだめだ・・・」と未来に絶望した20代の頃。一つの道が閉ざされたからこそ、計画通りにいかなかったからこそ、別の道があることに気づいた。そしてその道こそが実は自分を生かす道だった。
人生は思わぬとこで思わぬものをひろう。だからこそ、人生でもしそれを経験することになったなら。「無駄な経験である」と決めつけず、「きっと自分にとって必要な何かをつかめるかもしれない」と考えることが大切なのだろう。
はじめに
「人生何が起こってもなんとかなる」
その具体的、客観的、科学的根拠を探すことは難しい。なぜなら人生とは計画通りに必要なものが手に入り、予定通りに必要な段階で物事が展開していくような性質のものではないからだ。
むしろ人生は、自分の意図や計画とは反する出来事が突如として起こり、その結果、意思とは別の方向へとかじを切らなければいけない状況に陥ることもしばしばである。
ところが、である。そうした「予想外」の「考えてもいない」出来事を通じて人生は、新しい出会いやよりよい生き方への気づき、自己の新しい可能性を与えてくれる。
結局のところ、自分は自分で「これが人生である」と考えることはできるものの、本当に自分が歩む最善の道というのは自分の意図とは別の形で拓けていくようだ。
なぜ、今そこにいるのか?
「成功」と「失敗」。「良い」と「悪い」。物事を二項対立で考えればわかりやすいし、その思考法はとてもシンプルである。
だが人生という現実においては、失敗と思っていたことがその後長い目で見れば成功に姿を変え、逆に成功と思っていたことが実は失敗だったということがしばしば起こる。すなわち物事の意味や価値、影響は、二項対立的な判断はできない。
だからこそ自分の頭で何が最善なのか、どうすれば人生に満足できるのか、何を手に入れどのような生き方をしたいのか、考えることや願うことそれ自体はとても重要である。多少なりとも、それらは人生で実現される。
だがそれと同時に、何らかの理由で今そこで起こっている現実や今自分自身が所属している場所、そしてそこで起こる出来事を通じて気づくことができる何かもある。特にそれが自分の意図とは無関係であるならば、そこに何らかの理由があるからかもしれない。
「現実が思い通りにならない」ときこそ心を開いておく
楽しい日々を意図する。豊かで満たされる生活を望む。自由が溢れる人生を希求する。人生において「私は◯◯を望みます」と意図することは大切である。
が、もしも現実が自分の意図とは違うなら、いや意図とは違えば違うほど、「これは悪いことである」「失敗である」という自己判断を差し控えるのが吉である。
楽しくない日々を送っている今の人生は必ずしも失敗とは限らない。あまりに人生に制限が多すぎて、息苦しさを感じる日々は必ずしも失敗とは限らない。
もしかしたら、楽しくない人生を送っているからこそ。制限だらけの日々に息をつまらせそうな日々を経験するからこそ。その場所で、その日々のなかで、「思わぬ何かに気づける可能性がある」ということを、知っておきたい。
人生に無駄はない。無駄と思うのはあくまで、自分の表面的な思考である。
最後に
見ようとしないものは見えない。感じないものは気づかない。自分自身が「無駄である」と考えたとき、本来見えるはずのもの、気づこうとすれば気づくことができるものさえ、気づくことができなくなる。
だが、どんなときでも、どんな場所でも「今自分がここにいることになったのはきっと意味があるはず」と信じることによって、そこで何かをつかみとることはできる。たとえ短い時間であろうと、それがハッピーな体験でなくとも。
人生は思わぬ場所で、思わぬ何かを見つけることができる。「正義の宮殿」の中に鳥や鼠の糞を見つけるように。「悪徳の谷底」に美しい人情の花と香しい涙の果実が溢れていることに気づくように。
出典
『濹東綺譚』