自分自身の力、可能性を狭める大きな現況の一つ。それこそが依存心である。
ここで言う依存心とは、自分自身で考え行動することを放棄し、そのかわりに誰かや何かの力によって現状を変えたいと願う心の習慣を指す。
依存心の背後にあるものはとてもシンプルである。「私は自分で自分のことは考えません。誰かに私を任せます」という受け身の状態がそれである。
誰かに何かを任せ、依存している状態は楽である。自分で考え、答えを見つけることなく、「マトリックス」の世界に居続けることができる。だが受け身でいる限り自分の運命は自分の手元にはない。常に、誰かに動かされ、翻弄されることを意味する。
そこから抜け出す方法はシンプルかつ明瞭である。それがこの記事のテーマである。
はじめに
今、世の中は少しずつだが良い方向へと変わりつつある。その兆候の一つが「自分で考える人が増えている」という吉兆である。
例えば世の中には専門家と呼ばれる人々がいる。彼らはその人生において特定の分野に精通していると考えられている。つまり彼らはある種の権威であり、「信頼するもの」「頼るべきもの」の代表である。
だからこそ専門家の主張は頼りにすべき「正しい」ものであって、自分自身の直感的な感想や印象は二の次であると私たちは考えてきた。
ところが、である。近年では必ずしも専門家が主張する事柄がつねに正しいとは限らず、むしろ場合によっては、権威付けされた事柄によって私たちの行動が特定の方向へと誘導されてしまうという事象に気づく人々が増えつつある。
それと同時に、私たち自身の常識的な感覚こそが実は、私たち自身の生存において大いに信頼がおけるものであるということに気づき始めている。すなわち、「普通に考えて」「常識的には」という見方が、案外正しいことに気づき始めている。
世界にはわからないことが多い。ウソもたくさんある。だからこそ、その分野に詳しい(とされる)専門家の主張に耳を傾けることはとても大切である。
だがそれ以上に重要なのは、「専門家が言っているのだからそれは正しいのだろう」とそのまま受け入れることではない。耳を傾けることと、言われたことをそのまま受け入れること、すなわち依存してしまうことは全く、別の話である。
「なぜ?」を考える習慣を持つ
ステークホルダーという言葉がある。日本語では「利害関係者」を意味する言葉だが、なぜ必ずしも専門家の主張が正しいとは限らないのか。むしろ正しいこととは別の方向へと私たちを誘導するのか。その理由はステークホルダーという言葉で理解できる。
知られてきた事実だが、ある製品を「これはとても価値が高いものであり、専門家も認めた信頼性が高い製品である」と推奨する専門家が実は、製品の販売会社からお金を受け取った上で、製品に「お墨付き」をつけることが行われている。
かんたんに言えば、その専門家と製品の販売会社はステークホルダーである。そこに一定のバイアスがかからないと考えることは極めて難しい。
例えばあなたはSNSなどで、「◯◯は素晴らしい。価値がわからない者は情報弱者である」など、不自然なほど特定の何かを持ち上げる有名人やインフルエンサーの主張を目にしたことがあるかもしれない。
「◯◯はおすすめです」と主張する人はほんとうにそれをおすすめだと強く思っている場合もあるだろう。
だがなぜそれがおすすめされているのか。本当におすすめされるに値するものなのか。背後にあるものを自分自身で推測し、調べ、判断するというプロセスは、現代において必須である。
だが、「専門家が言っていることだから」「有名な会社の商品だから」など、権威に依存し自分で考えることをせず、自己判断をおろそかにすることによって、私たちは自分が意図しない現実と、直面する可能性があるのである。
「普通に考えれば」という視点
評判や評価は必ずしも自然発生的に生まれるものではなく、第三者の意図によって作られるうる。ステマや作られた口コミはまさにそうした活動の一環である。これらは私たち消費者の行動に影響を及ぼす。
だからこそ、製品を宣伝する上では「利害関係」について明らかにすることが、ネットの広告業界では法的に求められるようになった。
例えば、当メディアのようなウェブの媒体において広告を掲載している場所において、「広告」「PR」といった文言を、読者にとって認識しやすい位置に表示することが義務付けられている。そのため、読者視点では客観的にその情報を受け止めることができる。
だが、すべての業界においてこうした仕組みが働いているとは限らない。だからこそ有名人やインフルエンサーでも誰でもいいが、声高に主張された何かを目にしたとき、耳にしたとき、私たちがすべきことは明確である。
「有名人のおすすめだから」
「専門家のお墨付きだから」
「メディアで推薦されていたから」
などと権威に依存して思考停止せず、自分自身で調べ、考え、判断することである。そのとき、我々に備わっている「常識」という視点は案外、役に立つ。
例えば、Aという国で安全性を確保できず販売が許可されない商品を、日本で販売することになったらどうだろう?普通に考えれば、「え、なぜ?」「安全は確保されるの?」「本当に、安全なのですか?」と疑問に感じるだろう。
この当たり前の感覚こそを尊重することはとても大切である。
最後に
誰かや何かに依存するということ。それは自分にもたらされる結果を、誰かに任せ、委ねるということと同義である。
依存はときに「信じる」「任せる」という言葉に置き換わるが、依存することと自ら何かを信じること、信じて委ねることとはその本質は全く異なる。
確かに私たちは権威に弱く、自らを何かに依存させてしまう傾向がある。
「専門家が言っていることだから」
「有名人の◯◯さんがおすすめしているから」
「人気です、とTVで報道されていたから」
など、権威が伴う条件がついたとき、そこに自らの判断を挟むことなく受け入れてしまう傾向がある。
だがそこで一息つき、鵜呑みにしない。自分自身の感覚や、当たり前の感覚、常識を大切にする。その上で何かが引っかかれば自分自身で調べてみる。「なぜ」を追求してみる。
こうした行為は依存からの自立である。そしてそれは、私たちが知るべきことについて気づくための大切な行動なのである。