何があろうとも、最終的に自分の人生を決めるのは自分。

光をつかむ

2019年、官僚として国家運営に携わってきた男性が自身の長男を殺害するという事件が報道され世間の注目を集めた。

一体男性に何があってあのような事件が起こったのか?この事件について思うところがあるので、それを語っていきたいと思う。せっかくの人生を大切に生きるための、貴重な気づきがあると思うから。

はじめに

ネットや報道で伝えられている情報として、被害者の男性は、加害者である父親から毎月30万円以上の小遣いをもらい、引きこもって生活していたと言う。

一般的な家庭において、40を過ぎた子どもに毎月30万以上の小遣いを与え、その生活を担保するのは難しいことである。にも関わらずそれが可能だったのは、加害者の家庭に相当な経済的な余裕があったからだと推測する。

しかし、ネットで他者に対し威圧的な態度を取り周囲に対して恨みを重ねた結果、「他者に重大な害悪を及ぼす」可能性を危惧した父親によって人生を終了させられた男性の報道を読むと、このことを考えずにはいられない。

すなわち、なぜ恵まれた環境が与えられているにも関わらずその環境が仇となる人がいるのか?一方で、どんな恵まれない環境のなかで這い上がる人がいるのか?両者の違いについて、考えずにはいられない。

用意されていた「恵まれた環境」

被害者の男性はその生活を完全に親の財力によって守られていた。静かに暮らしていれば、社会に出て働かずとも、天寿を全うすることができたのかもしれない。

twitterで「俺は事務次官の息子だぞ」と父親の権威を笠に着たり、母親や世の中を恨み続ける人生を送るのではなく、月30万円の小遣いをもらい続けた上で、建設的なことをするというチョイスもあっただろう。

例えば被害者の男性はいわゆる廃ゲーマーだったようだが、その有り余る時間を生かして無名の素晴らしいゲームを発見し、それを評価したり、プレイ動画を配信することを通じて、好きなゲームの宣伝活動に貢献するという選択肢もあったはずである。

住む家があり、一切の労働をせずとも毎月30万円もの「自由に使える」お金が手に入る。男性にはそんな環境が与えられていた。それは特権的な生活であり、「恵まれている」と考えるのが自然である。

やがて我が身を滅ぼすもの

人生どんな環境でも、自分に与えられた環境を呪い、恨みつらみを重ねて人生を台無しにすることもできる一方、自分の置かれた環境なかに最大限のプラスを見つけて、それを人や世の中の役に立てることができる。

どちらを選ぶのか?それはやはり、個人のチョイスなのだろう。

どんなに恵まれている環境にあっても、完全な親などいない。世界の何もかもが自分を受け入れてくれることなど、絶対にない。そもそも人生は問題の連続である。思い通りにならないことの連続である。そして人生には、タイムリミットがある。

理不尽や苦悩を味わうことが生きることのサガだが、それでもその中から光を見つけて、自分なりに最善を尽くし生きていくことはできる。「これ以上ないほど最悪」というどん底の中から、光を探すことはできる。

怒りを抱えて誰かや社会を敵意を抱き続ける人生を選ぶか?それとも、「自分は自分なりの人生をつかむ。最善を尽くす」と決めて生きていくのか?現実がどうであれそのチョイスは、自分次第なのだろう。

最後に

もし完全に生活を保証され、毎月30万円親から小遣いもらい、24時間自由に時間を使える環境が与えられているなら。

それらは何一つ自分の力で手に入れたものはなく、親に庇護され続けるままの人生であり、ゆえに自分に自信を持つこともできず、何かが屈折することは想像できる。

この事件の報道を詳しく調べていくと改めて思うが、「恵まれた環境」というのは人生の行く先を決定づけるものではなく、あくまで要素の一つにすぎないということである。

結局人は傷を負わずには大人になることはできない。無傷で生きることなど不可能である。だからこそ自ら選ぶ必要があるのだろう。「自分は、どう生きるのか?」を。