頭で考えたことは案外うまくいかない。そして心で感じたことは

うつむく女性

現代ではなにかと「合理的」「科学的」な思考に価値が置かれがちだが、実際の現実として、「理屈としては正しいように思えるのですが、結果からすると違うんですよね」ということがしばしばある。

たとえば新しいビジネスを始めるとき。市場を分析し消費者のニーズを調べる。その上で自分が持つ強みと弱みを明確化した上で、「ではどこに参入すれば成功するか?」を分析する。

そうした「理屈」「根拠」によって準備されたビジネスを始めることで成功が期待できると考える。だが実際にそれを始めたところで考えたとおりに成功できるか?予想した結果を得ることができるか?現実はまた、違う。

その一方、「◯◯がしたいなぁ。楽しそう!」など深く考えず、むしろ軽い気持ちで始めたことがなぜか予想以上にうまくいき、結果として人生に新しい展開をもたらす場合がある。

結局のところ、「人生において理屈に基づき導き出した答え、選択は案外不正解ではないか?」と感じる場面は、決して少なくない。

その上で冷静に考えてみれば、人生において重要な問題ほど頭で考えたことよりも心で感じたことのほうが信頼性が高いという傾向に、あなたは既に気づいているかもしれない。

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はじめに

「◯◯するのは安全だ、◯◯するほうがうまくいくだろう」

誰かに何かを証明するためには具体的な数値や事実を提示する必要であり、それらの証明を持ってこそその正当性は証明される。

一方、個人の感性や主観といった要素は低く見積もられ「それってあなたの感想ですよね」という有名なネットミームのとおり、一般的には「感じたこと」「思ったこと」はそれらを裏付ける外的な証拠がない限り信頼がおけないものであるとみなされる。

だが人生というカテゴリでは話が別である。人間関係。仕事。いい感じがすることはうまくいく。だが、「熟考した結果◯◯をすればうまくいくだろう」と判断したことは案外し失敗し、「理由は特にないけれど、◯◯をすれば楽しそう」と何気なく感じたことがうまくいく。

そして「◯◯は嫌だな」「なんとなくだけど、気が乗らない」と感じているにも関わらずそれをしてまうと障害やトラブルに巻き込まれる。「やめておけばよかった」という結末が訪れる。

どうやら心という見えない何かは、その具体的な根拠がなくとも自分にとって正しい選択を示すことができるものらしい。

答えは最初から分かっている?

「なんとなく」という感覚は数値化できず、理屈で云々することはできない。客観的な事実をもとに証明することも難しい。「ただそう感じたからそうだ」という話なのだが、実際問題、それは驚くほど正確に物事の本質を察知する。

問題となるのは頭で考えたことである。心はそれは違うという。だが頭で考えたことがそれを打ち消し、間違った選択を選ばせようとする。つまり、心で感じたことを頭が理屈によって正当化しようとするのである。

あなたはある人と出会う。第一印象では「理由はないけれど、なんとなくお近づきにならないほうが良い感じがする」とあなたは感じる。

そして「学歴はどうでどこどこの会社に勤めていて収入はどうで」といった「情報」を後付で得ることによりあなたはその人に対して「お近づきにならないほうが良い感じがする人」から「有能で魅力的がある人」といった考え方に変わる。いや、「頭が」考え方を変える。

だが実際にお近づきになってみれば、最初に感じた印象が正しかったという証拠が次々と見えてくる。心で感じたことを無視し続けていれば、バッドエンドは間近である。

「自分にとっての正解」とは

「考えたこと」や「感じたこと」。それらは客観性や証拠力を持たない、あいまいなものである。ゆえに他者を説得することはできないが、自分自身の選択において他者に説得性を持たせる必要はない。

なぜなら人生においては、自分自身が選択してきたことの結果責任はすべて、自分が背負うことになるからである。

Aさんが「◯◯はやめとけ」といっても自分の直感が「イエス!」だったり「根拠はないが良い感じがしてたまらない」場合、それは肯定的に対応するのが自分にとっての正解である可能性がある。むやみに否定する必要はない。

逆に、Aさんだけでなくまわりの人々が「あなたには◯◯が最善です」という事柄であっても、「なぜかそれをしようとするとお腹がぎゅっとする」「どうしても気乗りがしない」という場合。

本当にそれが自分にとって最善の答えなのか?それこそそれが最善なのかどうか、根拠を探る必要がある。どうやって?「自分が感じたこと」を大切にするのである。

「自分が感じたこと」には明確な理由がないかもしれない。だが「自分がそう感じた」というサインを「気のせい」で終わらせることは、自分のためにならないことだけは確かだろう。

最後に

20代の頃より自己啓発に興味を持ち、「どうすれば人生において、自分がしたいことを現実で実現できるか?」というテーマを追求してきた。そして、自分ができることとできないことを「考え」、行動リストを作成し、実践してきた。

その結果学んだことは、「理屈の上では」うまくいく可能性が高いと判断できたことでも自分が違和感を感じたことや気乗りしないことをしてもうまくいかず、人生という視点において「それをする必要はありませんでした」という結果に終わるということである。

その一方で、「結果として」として予想以上にうまくいき私の人生を豊かにしてくれたことは「絶対に◯◯を成功させる!」と決意したことではなく、「なんとなく」始めた「良い感じがした」ことばかりであったことに気づき、驚愕している。

人生では周囲の人々や社会の模範や宣伝、「◯◯するのが正解です」という話に影響されがちである。だが重要なのは自分にとってそれが正解なのかどうか、という視点である。

ではどうやって自分にとっての正解を判断するのか?「それが自分にとって自然に感じられるか不自然に感じられるか?」という基準である。すなわち、「自分が感じたこと」を尊重することによって私たちは、自分自身にとっての最善の道を見出すことができるのである。

「自分を信じる」というと傲慢なような気もしないでもない。だが自分の人生における最終責任者は自分である。だからこそ、自分の感覚を無下にしてはいけないのである。