悲しみのあとに喜びあり、人生は常にそうしたものです。
トルソーツキー
人生悪くなればやがて良くなる。
人生のどん底に直面した人がやがて行き着く先は破滅ではなく興隆である。それは「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」という「陰陽転化の法則」が示す通りである。
だが陰が陽に転じるための重要な要因があるように思う。この記事ではその要因について、語りたい。
はじめに
「希望」
もしかしたらあなたはこの言葉を、子どもが読む童話やアニメやゲームの世界にのみ存在する陳腐な概念のように感じるかもしれない。現実とは程遠い、ただの気休めのように考えるかもしれない。
だが実際のところ「希望」を持つことは、私自身の運命を左右するとても大きな要因である。
「希望」とは信念である。それは「(今がどうであれ)これから先はきっと良くなっていく」という信念である。信念とはその個人がその内側に抱くものであり、そこに何かの根拠や証拠はない。そしてそれは第三者からの承認もない。
そこに何らかの根拠がなかったとしても。誰かから「あなたはきっと良くなっていく!」と認められなくとも。「これからは必ず良くなっていく、何かが変わっていく」と信じること。それこそが「希望」という信念である。
私たちは「希望」を持つことによって、人生のボトムを乗り越え、ピークへと向かうことができる。「希望」があることを信じるからこそ、人生の底という深い夜のなかで光を見出すことができるからである。
「意識を向けたもの」が現実に出現する
先日、「量子力学」という概念について述べられた本を読んだ。
難しい理屈をカットしてその概要をかんたんに述べるなら、それは「私たちが意識を向けたものが現実に現れる」という法則論であり、それが意味するのは「私たちが考え意識を向けたことが現実化する」という可能性である。
すなわち今の現状がどうであれ、「これからは良いことがあります」というように現実に「光」に意識を向けるならばやがて現実に光が差し込む。逆に「もはや、自分の人生はどうでもいいのです」と考えるならば、考えた通り人生はどうでも良くなる。
「最後の砦」という言葉があるが、それはただの比喩ではない。文字通り、自分自身が最後の砦となって自分の人生を見捨てないかどうか。それこそがまさしく、運命の分岐路となる。
たとえどれだけ小さな光であれ、光に意識を向けることができるかどうか。どのような状況になろうとも「これからは良くなるはず」と信じられるかどうか。陰陽転化が起こるかどうか。悲しみの先に待ち受けている喜びを噛みしめることができるかどうか。
意識を向けたものが拡大し現実化するのであれば、自分自身の人生に「希望を持つ」ことによって私たちは、「光差す人生」という可能性を生み出すことができるのではないだろうか。
何を考えるか、何を見ようとするかという「選択」
人生で困難が訪れたとき、私たちは必ずしもその困難に対して独力だけで対処できない部分は実際にある。むしろ、物事の転換には、自分の力ではない第三者による手助けのような他力が関係していることも少ない。
だが、その他力というのもまた、自分を見捨てた人に訪れることはないように思う。なぜなら自分の意識こそが意識に応じた現実を引き寄せる原因だからである。
結局のところ、人生にすねていても良いことはない。その態度を続ける限り人生は、「もう、そういう態度はやめましょう」という現実を見せ続けるだけである。
その一方、「確かに今は人生のどん底だ。だが、これからは良くなる!」と人生の肯定的な側面に「意識」を向け続けるならば。現実世界に肯定的な側面が少しずつ見え始める。文字通り、「自分が意識を向けたもの」が現れ始める。
それがいつ、どのタイミングで起こるのかは分からない。だが、現実は変わる。どんな最悪もやがて最高に。悲しみは喜びに。不運は幸運。人生にはそういう側面が、確かにあるのである。
最後に
人生ではときに、「自分は無力である」と絶望感に膝を屈する場面がしばしば訪れる。だが重要なことが一つ、ある。だが自分自身の力は小さくとも無力ではない。そして、自分自身が微力だとしても微力は微力なりにできることが必ずある。
確かに現実は思い通りにならないことが多すぎる。予測不能なことが多すぎる。理不尽としか思えない出来事さえ起こる。
だが人生で何かが起こったとしても、私たちはそこにその先に待ち受ける希望という名の可能性に意識を向けることはできる。「それはきっといいことに変わる」と、信じることはできる。
だからこそ何に意識を向けるのか?その選択だけは自分自身が明確な意志を持ち、行うのである。長い夜の中、「必ず夜明けは訪れる」と信じて待つのである。悲しみの次には喜びが、絶望の先には希望が待っているのだから。
出典
『永遠の夫』