
惰性とは、自分の頭で物事を考えようとしないことだ。自分の頭で主体的に考える者は、惰性で生きることはしない。
惰性で生きている者は、周りの状況に簡単に左右され、支配される。自分で考えるくらいなら、悪魔に考えを委ねようとする。
現状に甘んじ、それを打ち破ろうとしない。自分が人生に何を求めているのかわからず、ただ漠然と時間を過ごしている。
頭の中にある考えは、自分のものではない。たいてい、それは悪魔からの受け売りだ。怠惰で、自分の頭を使おうとしない。
だから、私はその思考を繰り、その心に自分の考えを植えつけられるのだ。
ナポレオン・ヒル著『悪魔の習慣を断ち切れ』より
この言葉の本質を一言で述べるなら、次のとおりだと私は思う。
「自分で考えられない人は、人の言いなりになる」
自分で考えない。価値判断の基準を持たない。情報を集めない。誰かの意見を(その信憑性を調べずに)鵜呑みにする。
その結果、私たちは何者かに、「その思考を繰り、その心に自分の考えを植えつけられる」。待っているのは、自分が運命に介入する余地すらない、「流されるだけ」の人生である。
逆にいうと、私たちが自分で考え、判断基準を持ち、他者ではなく自分自身の価値観に基づき人生を生きることによって、誰かにとって都合の良い人生ではなく、自分自身の大切な人生を生きることができるのではないだろうか。
はじめに
自分の人生の責任を負うのは、他の誰でもない、自分自身だ。だからこそ、その人生に納得するためには、「だから、私はこの道を選び、歩んだ」という自覚が必要である。
だからこそ、悲劇は避けなければならない。自分の人生だと思っていたもの、それが実は、自分で考え、選んだものではなく、自分ではない他の何かの影響によって、「これが正解だ」と思わされていた道を選んでしまうという悲劇を。
だがその悲劇は、起こりうる。自分で考えず、判断せず、自分以外の何者かの価値判断を自分の人生に持ち込んでしまうことで、起こりうる。
そして重要なことがある。自分で意図せず、気づかないうちに私たちは、「誰かの考え」や「誰かの価値判断基準」を、「自分のもの」と錯覚してしまうことが、しばしばある。
私たちはどのように思考を支配されるのか
「プロパガンダ」という言葉がある。それは私たちの考え方や価値観を、特定の方向へ意図的に動かすための宣伝活動を指す。
そして、それはただ単に情報を伝えるというより、私たちの感情や行動に直接働きかけ、「それはそうだ」と思い込ませることを目的としている。
プロパガンダは、日々流れるニュースやSNS、YouTubeの動画、ブログの記事、有名人の言葉、様々な場所で、それと気づかせずに行われている。それはまさに、私たちの認知を操作する活動と言える。
日々さらされるあらゆる情報に対して、「自分で考える」「自分の価値判断基準を持つ」ということをしないまま、それらをそのまま受け入れる。
それによって私たちは、「頭の中にある考えは、自分のものではない」にもかかわらず、それらを自分の考えであると誤認識し始める。
噂話はもっとも身近な認知操作
認知操作は至るところで行われている。たとえばあなたが学校や会社で、次のような場面を目撃したことはないだろうか。
あなたはAさんと会話をしている。するとAさんはBさんについて話をし始める。それはBさんについてのネガティブな話題だ。AさんがBさんのネガティブな話を聞いたあなたは、Bさんについてネガティブな印象を持ち始める。
ここで問題は一つだ。Aさんの話が、真実かどうか、である。あなたが「自分で考え判断する」ということを大切にしている場合、Aさんから聞いたBさんの話が真実かどうかを、調べるだろう。
だが「自分で考え判断しない」ことによって、その真実はわからないまま、Bさん=ネガティブな人、という印象をあなたは持ち続けることになる。それは、あなたがAさんに認知操作されているという状態である。
ここから抜け出す方法は明確だ。自分で考え、価値判断基準を持つ。つまり、それが誰によって語られているにせよ、自分で調べ、判断することである。
最後に
アメリカ、ワシントンに在住する政治アナリストの伊藤貫さんは、近年のエリート層の傾向について、次のように指摘する。
「彼らは学歴があり、たくさんのことを知っている。だが、自らの価値判断能力を持っていない。彼らの口から出る言葉は空虚であり、本に書かれていることや、誰かが言っていたことを、その状況に合わせて口にしているにすぎない」
これが事実かどうかはここでは重要ではない。重要なのは、いくらたくさんの知識を知っていようと、自分で考え、判断する能力を持たない限り、誰かの考えによって繰られてしまう、ということである。
「でたらめである」「あやしい」と思い込まされていたことが実は真実かもしれない。逆に、「絶対に正しい」「安全である」「そうなるべきだ」と思い込まされていたことが、実は違うかもしれない。
正解は自分自身で考え、確かめる必要がある。それこそがまさに、これからの時代を生き抜くために必要なものだと、私は確信している。

