相手には、相手の「正しさ」がある。

調和する人々

兄さん、もう一つ質問していいですか。どんな人でも、ほかの連中を見て、そのうちのだれは生きてゆく資格があり、だれはもう資格がないなんて、決定する権利を持っているものでしょうか?

アレクセイ・カラマーゾフ(『カラマーゾフの兄弟(上)』)

正論という言葉がある。

理屈としては正しい。筋が通っている。だが、それはしばしば「相手の感情や状況を考えず」に使われる。

そのため、たとえ「私は、正しい」と相手を正論で論破したところで、相手がそれを受け入れるとは限らない。むしろ、相手の反発を強める結果に終わってしまうことも少なくない。

正論で人を追い詰め、裁こうとする限り、その先に待ち受けるのは、調和ではなく対立である。

正しさが誰かを救うとは限らない。私たちにとって、きっと正しさより大切なものがあるのではないだろうか。

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はじめに

私たちは、皆それぞれが、自分のなかに「正しさ」や「正解(と思うもの)」を持っている。

だからこそ、自分の正しさに反するものや、自分の正解と違うものを目の当たりにしたとき、私たちは自分の正義を用いて、それを裁こうとする。

その極端な現象が正義マンだが、それは必ずしも一部の人だけではなく、私たち誰もが持っている、潜在的な弱点でもある。

「あなたは、間違っている」と自らの正論を振りかざし、相手を論破することは、ある種の爽快感が伴う。場合によっては、自己肯定感を満たすかもしれない。

だがその行為は必ず、新たな火種を生み出す。

正しさが対立を生む理由

この世界には多種多様な意見、そして価値観がある。ある考え方を正しいと思ってもいいし、逆に間違っていると思ってもいいはずだ。

その一方、「◯◯が正解である」「私だけが正しい」と自らの正しさを周囲に押し付けることは、「私はそうは思わない」と感じる人々との間に、争いを生む。

そしてその行いはまさに、「ほかの連中を見て、そのうちのだれは生きてゆく資格があり、だれはもう資格がないなんて、決定する権利」を持っているかのように振る舞うに等しい。

誰かが正解を決めて、それを押し付けられ、従わなければいけない。そんな現実があるとしたらそれは、ディストピアに他ならない。この世界に、それを決めることができる人が、本当にいるのだろうか。

裁判官になってしまう私たち

「あなたはこうしなさい」

「今すぐそれをやめなさい」

こうした言葉がどんな立場で発せられるにせよ、ここで重要なのは相手に対する思いやりである。

その言葉に正義の押し付けがあるならば、それは所詮自己顕示であり、人を己の目的のために動かそうとする誘導にすぎない。

正しさの答えは一人ひとり、違う。人生のあり方に、「絶対」「唯一」の答えは存在しない。だがそれを探し、誰かに押し付けた瞬間、私たちはみな、自らの正義をもとに他人を裁く、裁判官になりうる。

そのとき私たちの心は、少しずつざわめき始める。その正義は、誰かを縛るだけでなく、自分自身もまた、その正しさに囚われていくからだ。

最後に

正しさはときに武器となりうる。正しさは確かに信念のような、人が持ちうる崇高な美しさとなりうるが、ときに人を追い詰め、不要な争いを生み出す武器となる。

だからこそ、正しさにこだわる必要はない。正しさよりもむしろ、相手の「後ろ」にあるものを見ようとすることだ。それは妥協ではなく、調和への道である。

相手には相手の正しさがある。それにほんの少しでも想像力を働かせることで、私たちは調和を生む余地を見出すことができる。

それは、「私はあの人を裁かない」という自覚的な選択である。この世界に、「ほかの連中を見て、そのうちのだれは生きてゆく資格があり、だれはもう資格がないなんて、決定する権利」を持つ人間など、一人もいないのだから。

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人間
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