人生の「下り坂」でしか、見えないものがある

女性に光が差している写真

人生はお前に数多くの不幸をもたらすけれど、お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福し、ほかの人々にも祝福させるようになるのだ。

ゾシマ長老(『カラマーゾフの兄弟 中』)

「絶対」「必ず」といった断定表現は好まないが、人生において一つ、「絶対に確かなこと」があると思っている。それは、「未来はわからないが、起こる出来事は全て伏線である」ということだ。

たとえば、である。順調だったはずの人生は突如、先の見えない暗闇に閉ざされる。これからどう生きていけばいいかわからない。そんなピンチでさえ、実は人生の一幕にすぎない。

人生で迷い、そして立ち止まる。人生が停滞し、失望し、動けないとき、そのとき拾うべき何かを拾う。そして、「その不幸によって幸福になり、人生を祝福」する。

日本には「一寸先は闇」という言葉もあるが、この言葉はこう付け加える必要があるように思う。「一寸先は闇、もしくは光」と。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

はじめに

人生には山があり、そして谷がある。

1年間か3年間、はたまた10年間。もしかしたら3か月。人生の下り坂がどれくらい続くのかを、予想することはできない。

だが、人生では「そのとき」にしか見ることができないもの、つかむことができないものがある。

人生には、何度も何度も底から立ち上がる、七転び八起きの人がいる。彼らがなぜ何度も何度も逆境を乗り越え、どん底から立ち上がることができるのか?

それは彼らが、人生の坂を下っているときにしか見えないものを見て、底に落ちたときにつかむべきものをつかむからだ。

だからこそ彼らは、人生で何が起ころうとも、「その不幸によって幸福になり、人生を祝福」することができるのだ。

なぜ、立ち止まらなければいけないのか

「人生に無駄はない。無駄だと思っているのは、私たちがそう考えているからだ」と遠藤周作さんは言った。

人生で立ち止まったとき。坂を下り始めたとき。

「なぜ、立ち止まらなければいけないのだろう?」

「自分は、まだ頑張れるはずなのに」

と、その経験を無駄と感じてしまうかもしれない。

だが、もしかしたら、そのとき見た景色や、そのとき拾ったものが、(一見そうは思えなくとも)その先で役に立つ可能性は十分にある。

そのことに気づいたとき、それは「あの経験があったからこそ!」と、未来で自分を祝福する「伏線」になる。

それは未来の自分を祝福するための「伏線」

普段、私たちは気づかないことがたくさんある。とくに、人生が順調なときほど、見るべきものが見えなくなり、気づくべきものをおろそかにしてしまう。

だからこそ人生には、その過程において、見るべきものを見て、気づくべきものに気づくための経験が用意されているのかもしれない。

人生の逆風はやがて追い風に変わり、「お前はその不幸によって幸福になり、人生を祝福」する。それはコインの裏が表に変わる瞬間である。

人生の底に落ちたとき。「もう、これ以上は進めない」と動けなくなったとき。今すぐ、無理に這い上がろうとする必要はない。前へ進もうとしなくていい。

人生から、「止まれ」と言われたら止まればいい。ただそのとき、足元を見ればいい。動かず、周りを静かに、見ればいい。そこからきっと、再び動き出すために必要な、何かが見つかるはずだ。

最後に

若い頃、「人生とは物語ではないか」と漠然と感じていた。年々、その確信を深めつつある。

私たちはこの世に生まれ落ち、成長し、自分という人物としてこの世に出て、人と関わり、それぞれの足跡を残していく。

その過程で、幸せや喜び、充足感を感じることもあれば、人生に何一つ期待できない気持ちになるときもある。だがそれらは人生の一幕にすぎない。

「どうにもならない」とき、その困難さが臨界点を迎えた瞬間、状況は突如として上向き始めることがある。

そこに一定の法則性はないように見えるが、すぐには意味がわからなくても、後になって「あの時間にも役割があった」と感じることがある。

だからこそ、冒頭にこう書いた。「未来はわからないが、起こる出来事は全て伏線である」と。

スポンサーリンク
逆境
この記事が気に入った方はSNSでシェアしていただけると嬉しいです。また、この記事を読み返したくなったときのためにブックマークしておくと便利です。