
私たちの人生に大きな影響を及ぼすもの。それは認知の仕方、すなわち「物事をどのように考えるか」という点である。
なぜなら、意識は私たちの行動に影響を与え、行動は現実の中にその痕跡を刻む。だからこそ、行動の「原因」となる意識のあり方は、私たちの人生に良くも悪くも作用する。意識が変われば、現実の形も変わるのだ。
私たちの認知には、大きく分けて二つのパターンがある。ひとつは自罰的、もうひとつは他罰的な思考である。言い換えれば、それは原因を「自分の内側」に求めるか、「外の世界」に求めるかという違いである。
原因をどこに置くかによって、見える景色はまったく異なる。しかし、どちらか一方に偏れば、心のバランスを失う。重要なのは、その二つの視点を状況に応じて使い分け、適切な距離感を保つことである。
原因を「外」に求める思考法
「それは◯◯のせいだ」(=私は悪くない)
この思考法が、いわゆる「他罰思考」である。それは、自分の「外」に原因を見出そうとする思考であり、一概に「間違っている」とは言えない。
なぜなら、私たち一人ひとりの人生で起こる出来事には、自分自身が原因となるものもあれば、自分以外の要因によって起こるものもあるからだ。
たとえば、あなたはいつも通りの時間に起き、支度をして家を出る。そして最寄り駅に着いたとき、電車が止まっていたとしよう。
そのとき、「何かトラブルがあって電車が止まっている。学校や職場に行けない。どうしよう」と考えるのは、ごく自然な反応であり、何も悪いことではない。
しかしもしあなたが、「電車が止まっているのに学校や職場に行けないのは、いつもより早く家を出なかった私のせいだ」と考えるとしたら、それは少しおかしい。
自分の責任ではないことまで自分のせいにしてしまうのは、現実を正しく認知しているとは言いがたい。
「自分の責任ではないこと」を適切に切り分け、理解すること。それは、私たちのメンタルヘルスを健全に保つうえで、きわめて重要なことである。
原因を「内」に求める思考法
一方、「他責思考」と対をなすのが「自責思考」である。
いわゆる自己啓発の分野では、この「自責思考」こそが人生を切り開くための必須の思考法であるかのように語られる。
自責思考は、起こるすべての出来事の原因を自分に求める。たとえそれが理不尽なトラブルであれ、生まれつき変えようのない何かであれ、「それは自分が原因となって引き寄せた」と考えるのだ。
「自分が原因であるならば、自分が変わることで現実も変えられる」。この、思考のマッチョイズムとも言える発想が、自責思考の根底にある。
もちろん、「他責思考」と同じく、「自責思考」にも一面の真実がある。一見、自分には責任がないように見える出来事でも、「その原因の一端は自分にもあるかもしれない」と考えることで、そこから新たな学びや洞察を得ることができる。
原因を外にばかり求めていては、問題を繰り返さないための反省は生まれない。しかし、原因を内に見つめようとする姿勢があれば、そこに気づきと変化の意識が生まれる。
この意味で、自責思考は確かに、私たちの人間的成長を促す思考法であることは間違いない。
思考を「中心」に置く生き方
問題は、バランスである。
人生で起こることを人や環境のせいにばかりしていては、私たちは一歩も成長できない。
だが、すべての出来事を自分のせいにしてしまうのも、また行き過ぎである。
それは、ある種の思い上がりである。「自分次第で何でもできる」「自分はすべてを変えられる」といった発想は、万能感の裏返しだ。それは、自然や未知の存在に対する敬意や畏れを失った、現代人特有の傲慢さとも言える。
私たちは、強く願ったところで天気を変えることはできない。持っている株の値を意のままに動かすこともできない。病気にならないよう努めても、なるときはなる。そして、どんな成功者であれ、永遠にこの世界に留まることはできない。
私たちには制限があり、限界がある。だからこそ、行き過ぎた自己責任の思想は、私たちを息苦しくさせる。
さらに厄介なのは、「人生はすべて自己責任であり、うまくいかないのは努力しない本人のせいだ」という冷たい発想へとつながってしまうことである。
そして、その延長線上に生まれるのが、「自分さえ良ければいい」という徹底した個人主義である。それは、一見すると自立や強さのように見えて、実際には他者への想像力を失わせ、社会のつながりを蝕んでいく考え方でもある。
大切なのは、人生で起こることを客観的に認め、「自責」と「他責」のあいだに適切なバランスを見出すことだ。そのとき初めて、私たちは思考を自分の「中心」に据え、現実を穏やかに受けとめながら生きることができる。
最後に
思考の偏りは、現実の偏りを生む。それはやがて、歪みとなって姿を現す。
自分のせいであることは、自分のせいとして素直に反省し、学び、次に活かす。しかし、自分のせいではないことは、「仕方がなかった」として流せばいい。この適正なバランス感覚こそが、私たちの心に安定をもたらす。
私たちは、等身大の自分であってもいいし、そこからほんの少し背伸びしてもいい。けれど、必要以上に自分を大きく見せる必要はない。
事実は事実として受け入れていい。しかし、事実ではないものまで受け入れる義務はない。それはごくシンプルなことだが、実はとても大切なことである。
さらに気づきを深めたい方へ


