
「私は私の理想がある。そのために努力もしている。だけど、どこか息苦しい気がする」
そう感じたことはないだろうか。その理由は、もしかするとあなたの「こだわり」にあるのかもしれない。
こだわりとは、「〇〇は△△でなければならない」という信念である。確かに、こだわりを持つことで生き方に美学が生まれ、私たちは成長することができる。
しかし、こだわりを持つことが生き方の正解とは限らない。こだわりは「想定外」を許容する柔軟性を奪い、心のどこかに息苦しさを生み出すからである。
では、どうすればもう少し肩の力を抜き、より自然に生きることができるのか。その鍵となるのが、こだわらない生き方である。つまり、執着を緩め、心を開く柔軟な在り方である。
これは、私たちにとって本来もっとも自然な生き方であり、あるべき姿でもある。
はじめに
物事には必ず二面性がある。
こだわりを持つことは、筋を通すことであり、「思ったとおり」「考えたとおり」「計画したとおり」の人生を目指すという選択である。
その結果、私たちは自分の中に固い信念を抱き、「私はこういう存在である」と自分自身と人生を明確に定義することができる。
そしてこだわりがあるからこそ、安易な妥協に流されず、より高いレベルへ向かおうとし、自己成長を促すことができる。これがこだわりの「光」の側面である。
しかし同時に、こだわりは私たちを自分の「想定」に過剰に縛りつける。「〇〇は△△でなければならない」という思考が強固になるほど、人生から柔軟性が失われていくのだ。
そして、もしそのこだわりが果たせないとき、私たちは容易に自己否定へと陥る。こだわりは自分を強くするが、固くしすぎる。固いものは折れやすい。これがこだわりの「影」である。
「こだわらない生き方」は「芯がない」ではない。柔軟性がもたらす「人生の余白」とは?
一方、「こだわらない生き方」は、表面的には「芯がない」ように見えるかもしれない。
「〇〇は△△でなければならない」という固定観念を手放し、目の前の状況に応じて柔軟に自分を変化させる。その姿は確かに、一貫性がないようにも映るだろう。
だが、実際には違う。変化に柔軟に対応していくという一点において、その生き方はむしろ揺るぎなく一貫しているのである。
この生き方は「〇〇が理想だが、△△でもいい」という余白を許容する。これは妥協ではなく、過度に自分に固執しない主体的な在り方である。
その余白があるからこそ、私たちは現実に適応することができる。常に「ベスト」だけを狙うのではなく、状況に応じて「ベター」を選択する柔軟な生き方である。
「こだわらない生き方」は、軸のない生き方では決してない。むしろ、しなやかな軸を持つ生き方である。
人生を柔らかく、しなやかにする鍵。それは「ねばならない」を「でもいい」に変える思考法
人生にこだわりがあってもよい。だが、そのこだわりを手放せる柔軟性を持ってもよいのだ。こだわりの数が多いほど、人生の自由度は減っていく。
状況は常に変化する。たとえ「〇〇は△△でなければならない」が合理的な選択だったとしても、状況によってそれが不可能な場合はある。
そんなときは、「〇〇は△△でなくてもいい」とベターを選ぶ。こだわらない生き方が、人生を柔らかく、しなやかにしてくれるのである。
「〇〇は△△でなければならない」という強いこだわりは、ときに人生から選択肢を奪う。こだわりは価値を生むが、そのこだわりを「変えてもよい」と認める柔軟性こそが大切なのである。
最後に
「柳に風折れなし」という言葉がある。堅く強いものよりも、柔らかくしなやかなもののほうが、実は耐久性が高いという意味である。
堅いものは堅いがゆえに脆い。だからこそ私たちは、常に100%で生きる必要はない。こだわりを貫くために、ほかの選択肢を捨てる必要もないのである。
「〜ねばならない」を「〜でもいい」に変えてみる。そうすることで、人生に余白が生まれる。その余白こそが、私たちにとってもっとも自然で無理のない生き方を見つけるためのスペースになるのだ。
人生は思う通りにならなくても大丈夫。それに気づく視点をお届けします


