人生は本当に不思議なものである。
人生で何かを得たいと願う。成長したいと努力する。その結果、それらを実現し「自分の人生はうまくいっている」と悦に入る。その状態はその後も続くように思える。もはや自分の人生の行く末は完全に定まったかのように見える。
ところがどっこい、人生はまるですごろくのように「振り出しに戻る」というタイミングがある。たとえば、
1.収入や貯金
2.築き上げた人脈や友人や仲間など人間関係
3.自分が手に入れてきた物質的な品々
などが、ゼロの状態にリセットされる状況である。
だからこそ「人生一瞬先は闇」という表現があるのだが、この記事ではなぜ人生にはスゴロクのように振り出しに戻る場合があるのか?もし人生が振り出しに戻ったとしてもそれが本当に「悪い」ことなのか?「お先真っ暗」の状態なのか?
一つの視点を提示したい。
はじめに
人生の順境が逆境に変わり、気づいたときには振り出しに戻される。
人生は何かをコツコツと積み上げていくだけでめでたしめでたしを迎えるのではなく、積み上げたものがぶち壊され、新しくやり直しになる。いくら安全パイを自覚的、そして計画的に選んだとしても「まさか」は起こる。
つくづく生きるということは予測不能であり、自分自身の意志とは無関係の出来事によってその道程が変わりうるものであることを実感させられる。
だが人生が振り出しに戻り、それまで築き上げてきたものを失ったとしても、すべてを失うわけではない。誰からも奪われないものが一つだけ、ある。それは課程から得た「経験」である。
私たちは人生という舞台で何かを得ようと前へ進む。その過程で様々なことを学び、成長する。それは「経験値」として私たちの内部に蓄積される。それは人間力的な魅力となるだけでなく、その後のあらゆる場面において人生の歩みを助けてくれる力になる。
そして不思議なことだが、長い目で見れば「振り出しに戻った」ことが結果として実は良かったことに気づくのだ。
「外面的なもの」はいつでも変わりうる
あなたが自分でビジネスをしているなら、必死の挑戦によって築き上げたあなたに富をもたらすビジネスが、自分の努力とは無関係の外的な要因によって一瞬でぶち壊され、収入激減の憂き目に遭うという現実を経験するかもしれない。
あなたが会社員として安全パイと考えられる「優良企業」への就職に成功し、比較的低リスクの生き方を自覚的に選択したとしても定年までは長い。上司や同僚、取引先との関係、会社それ自体の業績によって「進路変更」を真剣に検討せざるを得ない状況が訪れるかもしれない。
あなたは幸せな結婚を望み、「この人なら!」という人と出会い結婚したとしても、その関係は時と状況とともに変わる。最高の結婚生活を信じていたはずなのに、そこにある現実が理想とは違いすぎることに気づき困惑するかもしれない。
あなたは「貯金こそ豊かな人生の道である」と信じ、日々コツコツとお金を積み立て数千万円ものの貯金に成功したにも関わらず、それを一瞬の過ちによって失うことがあるかもしれない。
仕事。収入。家庭。対象は何であれ、意志と行動によって実現してきた人生で築き上げたものは、自分の意図とは無関係に失われうるものであり、またゼロからスタートしなければいけない状況が訪れる可能性はある。
実際、そうした外見的なものはいつでも失われてしまうものなのだが、仮にそれらを失ったとしてもそれらを得るまでに歩んだ道、そしてその道の途中で得た「経験」まで失われることはない。
人生が振り出しに戻る理由
人は得ることよりも失うことに敏感である。だからこそ「何かを失った」という経験はとても厳しい学びである。そして失うことは得ることよりもはるかにかんたんである。
しかし何かを失って絶望するのはせいぜい一週間程度で十分である。表面上の何かを失ったとしても、それを得るまでにあなた自身が身につけた経験は、誰からも奪われることはない。
それらの経験はあなたが何かを得る前よりもあなたを賢く、そしてたくましくしているのである。だからこそ何かが失われたのならそれまでに得てきた経験を活かして、また新しい別の何かを目指す。それこそが築き上げたものが失われた重要な理由である。
結局のところ、富や成功、結婚、何でもいいが、外的な何かを実現して得たものの本質は経験それ自体である。外面的なものはその後いくらでも変わりうるが、あなたが実際にしてきたことから得た経験は、あなたが生きている限り永遠に持ち運び可能である。
そしてそれはあなたの人間的経験値として、あなたという人物をより輝かせる。そしてあなたの人生に、新しい活路が見出される。
だからこそ人生が振り出しに戻ったとしてもそれはゼロからのスタートではない。それまで得てきた経験を活かして、人生において新しいチャレンジをする機会が与えられたのである。
今は理由が分からない。だがその後
ありふれた表現かもしれないが、「破壊と再生」という表現は人生で訪れる転機を端的に表現している。
今それが完璧であるならば、それが今後も永続的に続くものであるならば、それは壊れない。だがこの現実世界に変わらないものは何一つ、ない。何かが始まるときは必ず何かが終わる。
だからこそ、
「あのときはほんとうに大変だった。だけども今状況が落ち着いて、改めて振り返ってみると・・・」
人生が激変し「やり直し」になった経験を持つ人は、しばしばこのような感慨を抱く。
それが起こったときは確かに「不運」としか思えないかもしれない。だが、その後の自分の態度によってそれは「幸運」となりうる。だからこそ人生は終わり良ければ全て良し、なのである。
そもそも、人生が振り出しに戻されなければ新しい何かを始める必要性は生じない。なぜかは分からないが、人生が振り出しに戻されたということはきっとそうする必要がある理由があるからなのだろう。そうなった方がむしろ、良いからなのだろう。
人生はなぜそれが起こるのか、「今現在の視点」では理解できないことがほんとうに多い。
だが人生振り出しに戻ったときこそ人間力を発揮して再び活路を見出すことを選択したならば、その先には「良くなる前に悪くなる」という事象がただの気休めではないことを、実体験として学ぶことができる。
最後に
確か『非常識な成功法則』(フォレスト出版)で述べられていた話だったと記憶しているが、「もう俺の人生は万々歳だ」と思ったらまた最初からやり直しになるという話が語られている。
そういったケースは別に珍しいことではなく、ある意味人生の修行コースとして、当たり前のように用意されているものらしい。
仕事を失う。財産を失う。パートナーと別れる。健康を失う。「何かを失う」という経験をしたときは自分自身の人間力が否が応にも試されるが、だがそれで人生がゲームオーバーになるわけではない。
なぜなら人生は良くなる前に悪くなる。いつになるかは分からないが、「将来より良い現実が訪れるために、それはきっと、起こっている」と信じることはできる。
実際、「人生が振り出しに戻る」という経験をすることによって気づく。「何かを失ってもそれは致命的ではない。自分にその気があるならば何度でも、やり直すことはできる」という可能性を。