「結婚を約束していた恋人から、婚約を破棄されてしまった」
「会社から一方的にリストラされてしまった」
「遠方の親が倒れ、介護のために今の暮らしを捨てなければいけなくなった」
人生では突如、逆らい難い変化がやって来る。それはいわば人生の転機であり、運命の転換期。自分がそれを望もうが望むまいが、それは必ずやって来る。
問題は、「何のために」それがやって来るのか、ということである。
はじめに
私たちは、「こんな人生を生きられたら自分の人生は最高に幸せである」という、理想の人生像を描き、それを実現するために、前へ進んでいくことができる。
その努力は素晴らしいことだし、理想の人生を目指すことによって、自分が成長し、人間的にも経済的にも、あらゆる面で良くなることができる。
ただし一つ忘れてはいけないのは、人生どれだけ理想を心に描こうと。最高の人生を生きようと決意しても。すべて思うがまま。完璧に自分が思い描いた人生を生きることなど不可能な話である。
だから、「人生こうあるべし」という期待値が高ければ高いほど、努力の果てに自分自身を見失ってしまう。
なぜなら人生は突如、想定外の変化。抗うことができない出来事によって、人生そのものを見直すことが要求されるからである。
問うべきは「なぜ」ではなく「何のため」
問題はそんな変化がやって来たとき「その意味をどう解釈するか?」ということである。
人生で不可抗力の変化がやって来たとき、
「自分は今まで精一杯、理想の人生を生きるために努力してきた。なのになぜ、こんな邪魔が入るのだろう?どうしてこうも人生は理不尽なんだろう?」
と考えることもできる。
一方で、
「今このタイミングで自分の人生に変化がやって来たのは、一体どんな意味があるのだろう?自分は今、ここで何に気づく必要があるのだろう?」
と、起こった出来事の意味を、冷静に問うこともできる。
何が正解なのか、それは分からない。しかし逆らい難い変化がやって来たら。それはもう避けられない。正面から、向き合っていくのが、自分自身のためである。
それは自分に何を伝えようとしているのか?
人生で努力を重ね、理想とする人生を実現する。それは人として最高に幸せだし、努力の価値を実感できる素晴らしい人生である。
しかし人生は仕組み的に、何から何まで自分の思い通りの展開で人生が進んでいくようにはなっていない。
ある日当然、すべての努力が台無しになってしまう。自分の意思に反した道を選択しなければならない。そんな、逆らい難い変化が訪れるものである。
問題なのは、ここで投げやりになってしまい、変化が起こった本当の意味を見失ってしまうことである。
確かにそれは自分の期待したことではなかったかもしれない。自分の意思とは全く違う話かもしれない。でもそれが実際に人生で起こってしまった以上、そこに何か、意味があるのではないだろうか?
最後に
人生はいつ、どこでどうなるか、分からない。
自分が生きたいと思う人生を生きようと必死にもがいたとしても、突如訪れた変化によって、「意志の力」の限界を実感させられるかもしれない。でもそれでかまわないのである。
人生においてどうにも避けられない変化がやって来たならばいっそのこと、その変化を受け入れてしまおう。そして「何のために」とそれが起こったのか?その意味を問おう。
そうすれば、もしかしたらそこに、これからの人生において、何か重大な意味を見出すことができるかもしれない。なぜなら人生で起ることには必ず、それ相応の意味があるからである。
もしあなたが今、人生の転機を迎えているなら。あなたの人生で起こっている数々の変化は必ず、それ相応の意味を持っている。自分を見失わず、あえて変化に抗わないことである。
その結果は想定外。あなたが思いもしなかった素晴らしい人生が、待っている可能性もあるのである。