人生の転機は定期的に訪れる。私たちが望もうと望むまいと、それは定期的に訪れる。そのとき私たちは文字通り、人生において「やり直し」を強いられる。
それまで「築き上げたもの」を突如として失くす。それは確かに人生の喪失体験だが、ここで一つ、知っておきたいことがある。
それは、私たちはなにかを失くすと同時に「(それまで見出されなかった)新しい可能性に気づく」というチャンスが与えられているということである。すなわち喪失は新しい獲得の始まり。何かを失ったがゆえに新しく始まる物語が、確かにあるのである。
はじめに
仕事を失う。パートナーと別れる。健康を害する。それらは今まで人生において当然のように「あった」ものであり、それらが突如として人生で失われたとき段階では、確かにその出来事は理不尽としか思えないかもしれない。
だが、「転機」が強烈であればあるほどに、私たちは「それまで試みることをしてこなかった、新しい何か」をせざるを得ない。その結果、である。私たちは知ることができる。それまで知らなかった自分の可能性。想像もしてこなかった出会い。そして現実に。
だからこそ大切なのは考え方である。作家の遠藤周作さんが言ったように、「人生一ミリたりとも無駄はない。無駄と思えるものに大切なものが包まれている」。人生のやり直し期間が訪れたとき、私たちは与えられる。自分の新しい可能性に気づくチャンスに。
「それまでのもの」を失った結果起こること
仕事を失ったとき、私たちは新しい仕事を探す必要に迫られる。パートナーと別れたとき、新しい出会いにためらうことはない。健康を害したとき、改めて自分自身の生活習慣を見つめ直し、より健康的な生き方に目覚め始める。
それらはすべて「それまでのもの」を失い、やり直しをすることになった結果として、起こる出来事である。
「必要は発明の母」という言葉があるが、結局のところ私たちが何かを始めるとき、何かを変えていく必要があるとき、それをするための出来事がある意味で強制的に起こるようになっているようである。
であるならばそれは是非もなし。私たちにできることは、そのチャンスを積極的に活用することである。
幸不幸は表と裏
「禍福は糾える縄の如し」という言葉はほんとうに、味わい深い言葉である。あの出来事がなかったら。人生の転機となる出来事が起こらなかったら。決して出会えない現実が、確かにある。決して出会えなかった人が、確かにいる。
「失う」「変わる」「やり直す」といった出来事それ自体はネガティブな出来事のように思える。特に「私は今、何かを変える必要はありません。今の状況が続いていくことを期待しています」という状況なら、私たちはなおさら「今」が続くことを望む。
だが、変わらないものは何一つない。変わっていないように見えることでも、何かが日々、変わっていく。だからこそ私たち自身の主体的な選択として、変化を前向きに捉えることが大切ではないだろうか。
もはや、今までの現実を続けることはできない。人生から「やり直し」を求められている。そして「人生をやり直す過程」において私たちは、「未発見の何か」と出会う。もしかしたらそれこそが、「人生をやり直すことになった意味」なのかもしれない。
最後に
終わりがあれば始まりがある。何かの終わりは必ずしも悲劇ではない。人生より変化を求められたときそれは確かに、楽ではないかもしれない。だが、私たちは変化と向き合うことによって、ギフトが与えられる。
安定した暮らしは安定しているがゆえに変化は起こりにくい。その結果私たちは変化が起こっていることを見逃し、ぬるま湯に浸かり続けていることに気づかない。そして自分自身の掘り起こされていない可能性に、気づくことができない。
だが人生より強制的に変化を求められたとき、私たちに与えられているのは「変わるしかない」という一択の選択である。だからこそそれは劇的である。環境が変わる。そして生き方が変わる。そのとき私たちは初めて知る。それまで知らなかった自分自身を。
だからこそそれが起こってしまったのであれば仕方がない。「終わり良ければ全て良し」を目指して、与えられたチャンスを生かそう。その先に新たな現実が待っているのだから。