昔々の話だが、教育関係の仕事をしている方からこんな話を聞いたことがある。
その方が言うには、子ども同士の人間関係を見ていると、表面的には「嫌いあっている」子ども同士でもそれは必ずしもそうではなく、場合によってはその後仲良くなる可能性がある、つまり人間関係を修復できる可能性があるそうだ。
一方で、嫌いを通りこして「無理」にまで達してしまった子ども同士というのは関係を完全シャットアウト。嫌な相手は見るのも嫌。一切関係を持とうとせず、存在それ自体、ないもののように振る舞うそうである。
この話を聞いて、「「好き」の反対は「嫌い」ではない」という言葉を思い出し、「なるほど」と納得してしまった。
はじめに
「この人はどうしようもない」
その結論に達したときに私たちが感じるのは、「嫌い」というわかりやすい感情ではない。そこにあるのは、「もうどうでもいい」という徹底的な無関心である。
「この人、嫌い・・・」と感じるだけの段階なら、まだその関係は終わっていない。「嫌い」という感情は、ボタンの掛け違いによってプラスだった感情がマイナスに変わってしまっただけなのかもしれないからだ。
でも、「この人はもう無理・・・」となってしまえば、そこであらゆる人間関係は、物理的な距離を問わず、完全に終わる。なぜならそれは心理的に長い長い距離を置かれた結果だからである。
たとえ嫌われたとしても、まだ関係は終わってはいない
あなたが誰かに対して「嫌い」という感情を感じるとき、実はまだあなたはその人に関心を持っている。この意味であなたとその人との関係は、まだ途切れてはいない。まだ関係を修復する余地は残されている。
「嫌い」という状態は、それがマイナスの方向であれ、相手への関心が残っている状態だからである。関心が残っている限り、マイナスはプラスに転換できる可能性は残されている。
昔から言われることだが、人から怒られたり注意される人というのはまだ救いがある。叱る方は、「この人をなんとかしたい」「このままではこの人はだめだ」という気持ちがある。つまり精神的な「断絶」がないからである。
関係が本当の意味で途切れるとき
ところが。本当にその人のことがどうでも良くなったとき、
「ふーん」
「興味ないね」
「この人がどうなろうが自分には関係ない」
という気持ちに変わる。この状態を、「見捨てる」と表現する。「誰からも叱られず、注意されなくなったら終わり」というのは、こういう意味である。
人間関係において、マイナスな意味での最終地点が、この状態である。「見放された」状態というのは、「嫌われた」状態よりも厳しい、罰である。
最後に
好きの反対は嫌い、とシンプルに言えないほど、人の感情は複雑である。
本当に私たちがそれに対して嫌いを通りこしたとき、私たちはその「存在」に対して、無慈悲なほど無関心になる。愛という言葉の意味が実は「関心の有無」と言われるのは、鋭い指摘である。
プラスにしろマイナスにしろ、私たちが感情を動かされるとき、そこにはまだつながりがある。あなたが心から「この人はどうでもいい」と徹底的に無関心になれるとき。その関係はもはや完全に、終わってしまったのだ。