
男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。然しそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。
一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突き付ける。即ち男は女から離れなければ成仏出来なくなる。女も男から離れなければ成仏し悪(にく)くなる。
今までの牽引力が忽ち反撥性に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同士、女はどうしても女同士という諺を永久に認めたくなる。
つまり人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来たるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。
夏目漱石(『明暗』より)
空を見上げながら、こう考えた。近づき過ぎると、苦しくなる。遠すぎると、他人になる。とかく、人間関係は難しい。
冗談はさておき、その関係に近遠や濃薄はあるものの、私たちの人生は、様々な人とのつながりによって彩られる。すなわち、人生の「質」の面においてクリティカルな影響を及ぼすのが、人間関係である。
そして、その人間関係をどのように育み、営むかは、人生の質を確保するだけでなく、ときに人生を守るための、ライフラインとなりうる。
問題は、どのように人とつながり、その関係を維持していくかだ。そこでカギとなるのが、「距離感」である。
はじめに
個人的に、冒頭の漱石の言葉を、次の意味として理解している。
「和合(近づきすぎ)の結果としての不和(反発)を回避し、自分という個体を守りながら他者と共生するためには安全装置が必要だ。それこそが距離感だ。」
漱石の言葉を借りれば、相手と一体化し、自分のすべてを受け入れてもらうことを「成仏」と呼んでいる。
ここで言う「成仏」とは、宗教的な意味ではない。相手という存在によって、自分の孤独や不安がすべて解消され、救われること、いわば「相手に自分を丸投げして楽になろうとする依存」を指している。
だが漱石は、その甘い幻想こそが「不和」の引き金になると警告するのだ。これはまさに、真理だと思う。それは、恋愛関係におけるその関係の変化を見れば、わかりやすい。
男女が牽引力によって出会う。熱意の絶頂時、それぞれが思い込む。「この人こそが、自分をわかってくれるすばらしい存在である」と。
その関係が永遠に続くのであれば、話はかんたんだ。だがその絶頂時は、転調の始まりである。2人の関係が固まった瞬間、たとえば「一度夫婦関係が成立するや否や」、「真理は急に寝返りを打って」変わり始めるからだ。
熱狂が不和に変わるとき
相手の嫌な部分が、見え始める。「自分にとっての不都合な部分」を感じ始める。そして、男には男の論理があり、女には女の論理があることに、否が応でも気づき始める。
2人が近づき過ぎた結果、2人を惹きつけた異質の魅力が少しずつ違和感へと変わっていく。
だからこそ、2人はやがて理解する。「人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来たるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない」(=人は誰ともわかりあえない)と。
「そこまでは言いすぎだ」と感じるかもしれない。しかし、漱石が説く「不和の理を悟る」とは、決して関係を諦めることではないと、私は思う。
それは、「相手ならわかってくれるはずだ」という過度な期待を捨て、相手を自分とは別の一個体として尊重する「覚悟」を持つことだと言い換えられる。
私たちは往々にして、この「わかりあえなさ」という前提を忘れ、土足で相手の領域に踏み込みすぎる。その結果、本来守るべきだった関係を自ら壊してしまうのだ。だからこそ、カギとなるのが「距離感」である。
「一体化」という幻想 「反発」という必然
距離が近づく。するとそこに、依存関係や、相手との一体感が生じ始める。
その結果、ときに私たちは「男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する」ように、相手に自分を依存させたり、一体化させようとする。それはある段階までは、2人を繋ぐ力として働く。
だが、「今までの牽引力が忽ち反撥性に変化」し始め、相手は逆に反発を感じ、逃げ出し始める。なぜなら、どれだけ近くなろうとも、性差や育ち、価値観、その他諸々、相手の「わからない」部分は必ずあるからである。
「人は、誰ともわかりあえない」という表現は強すぎるが、「人は、必ずわかりあえる」という表現もまた、強すぎる。
だからこそ、そうした幻想を捨て去り、距離感を保つことは、関係を崩さずに続けるための重要な条件の一つである。
人間関係の「距離」を測るための基本技術
去る者は日々に疎し。その姿が遠すぎる人との関係は、保つことが難しい。その一方で、日々あまりにも近づきすぎる関係は息苦しかったり、ストレスの原因になりうる。
「線引き」をどのようにするか。それがまさに、程よい人間関係を維持するための、カギである。そのためには、「自分」が不可欠である。
「そこまでは私の領域であり、ここからは踏み込ませない」
「私とあの人の考えは違うから、理解することを求めてはいけない」
「あの人が、私のことをすべて受け入れてくれることはない」
自他分離を意識することは、「近づきすぎ」や「一体化」を防ぎ、「大人の距離感」を意識するための基本技術である。
「距離感がバグってる」人がなぜ「バグってる」かといえば、自他の境界線そのものが曖昧だからである。
自分は人と違う。人は、自分と違う。この当たり前の認識こそがまさに、距離感を測るバロメーターになるのだから。
最後に
遠藤周作さんは、「恋は誰にもできるが、愛するには意志が必要である」という趣旨の言葉を残した。
相手を知り、距離が近づき、互いに「成仏」する季節はやがて終わる。牽引力が反発へと転じ、「この人は、自分が思っていた人とは違う」と突きつけられた時、私たちは試されるのだ。
そこで再び別の人との繋がりを探しに出るのも、一つの道だろう。だが、あえて「わかりあえない」という距離感を見つめ直し、その隙間を抱えたまま向き合うことを選ぶのも、また一つの道である。
近づき過ぎれば苦しく、遠すぎれば他人になる。だからこそ、その「ちょうど良さ」を模索し続ける私たちの「意志」こそが、人生の質を決めるのではないだろうか。

