愛は、哀願して得ることも、金で買うことも、贈り物としてもらうことも、路上で拾うこともできます。けれども、奪い取ることはできないのです。
ヘルマン・ヘッセ
「金があればなんでも買える。人の愛さえも」
と豪語した成功者がいた。
「お金があればモテて、いろんな異性と楽しめる」
という発言は印象的だが、たしかにたくさんのお金があれば、様々な人々が周りに集まってくる。そのなかには、誘いにも応じてくれる異性も多いことだろう。
お金がつなぐ関係は、虚しく極めて脆い
ただし、それはお金を持っていることが前提の関係でしかない。「金の切れ目が縁の切れ目」と言うように、お金で掴んだ「愛」は、お金とともに去っていく。
確かに、人の心はお金などの力で動かすことはできるかもしれない。お金の力で人を動かすことはできるかもしれない。「お金を持っているあなた」を好きになってもらうことはできるかもしれない。
しかし本当の意味で、人の心を買うことはできない。どれだけ大金をつぎ込もうとも。
人はお金で動くの事実。ただし
お金を持てば何でもできるような気がする。人の心さえ、自分の意のままになるような気がする。
しかしお金がなければあなたのもとを去る人が、本当にあなたのことを愛していると言えるだろうか。そのような人との関係が、愛のあるものだと言えるだろうか?
愛は条件を前提としない。「私はお金を持っているあなたを愛します。お金を持っていないあなたは愛しません」というような、「私はあなたが○○であれば△△します」といった類のものではない。
愛は意思である。「私はあなたが○○でなくても△△します」という、自発的かつ持続的な意思である。
だからこそ、人から愛を買うことも、無理やり奪って自分のものにすることもできない。もし奪えて買えるものが愛だとしたら、それは気休めの愛を象った模造品に過ぎない。
もちろん模造品でも、それなりに楽しめる。「愛されている」という幻想を楽しむことはできる。だが、所詮、模造品は模造品。それはあくまで気休めだ。本物とは違う。
偽物に酔える間は、真実から目を背けた道化を演じている人くらいだろう。もしくはそのことに気づかない愚か者である。
最後に
人生で起こりがちな悲劇の一つは、「○○さえあれば△△できる」という錯覚を持ち続けることである。その最たる例がお金である。
年収500万から年収を10倍20倍30倍と増やすことで、できることや買えるものは大幅に増える。だがそれでもなお、お金では買えないものがある。それを見誤った人が、しばしば「不幸なお金持ち」になるのだろう。
そしてお金で買えないものにこそ、この世界において大切にすべき、重要な価値を持つものなのだ。
出典
『シッダールタ』