どうして好きになったのか、そんなことが分からなくても

出会いの不思議

愛は計算じゃない。正反対だから好きになっちゃうこともある。安らげるから好きになっちゃうこともある。

ブリジット・ジョーンズ

人が人を好きになる。そこには理屈で説明できない複雑な何かがある。

「運命」と書けば大げさすぎるが、なぜあのときあのタイミングで、全くその出会いを予期していなかったにもかかわらず出会ってしまい、そして理由もわからず強烈に惹かれてしまう。そんな出会は、確かにある。

頭では「この人は絶対にありえない!」と分かっている。だが感情がそれを許さない。だからこそ恋は制御不能で、ときに人生の航路そのものを変えてしまうほどの力を持っている。

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はじめに

国立大学に勤めるとある心理学者が、恋についてこう述べていた。

「私たちは相手を選ぶとき、どれだけ理性的に相手を選んでいるように思っていたとしても、実際私たちが相手を選ぶときは本能で選んでいる」

ここで言う本能とは、遺伝子的なものを指す。その心理学者が主張するには、私たちが突如として「ビビッときた」相手と恋に落ちるとき、それはお互いが最も遺伝子を残しやすいタイミングであることを示しているそうである。

だから2人が恋に落ち、家族になって子どもができたのちに、その関係が変わったとしてもある意味で問題はないそうである。なぜなら、2人が出会うことによって子どもという新しい命が誕生したからである。

この主張は身も蓋もない話かもしれない。だが、理性ではどうにもならないような出会いは実際に、ある。

答えは「本能」が知っている

「頭」で相手の条件を好意的に評価しているときでさえ。そこには「計算以外」の何かが隠されている。当人はそれを絶対に認めたくないので、「私はあの人のどこどこに強い魅力を感じている」という「後付の理由」を作り出す。

すなわち、本能が感知した「理解不能」で「直感的」な相手への魅力を、自分自身で正当化するのである。だからこそその熱が冷めたあと、「なぜ、私はあの人にそこまで強烈に惹かれてしまったのだろう」という不可解な感情に襲われる。

これはしばしば起こる恋のテンプレである。「私たちが理由もわからず惹かれてしまう相手はまさに、自分自身の本能が求めている相手である」という主張があることを知っておけば、それを受け入れる受け入れないにかかわらず、多少は冷静になれるかもしれない。

出会いの結果は重要ではない?

だが、一度強烈に惹かれてしまう相手と出会ってしまったときは、理屈ではやはり、どうにもならないこともあるだろう。結局、私たちの本心は私たち自身の行動に現れる。

「本能」というと動物チックな響きがしてしまうが、先の心理学者は「本能」も私たちの生存における重要な力だと言う。もしかしたら、「出会うべくして出会ってしまった人」でさえ、その出会いが人生において必要だからこそ出会うことになったのかもしれない。

だからこそその出会いの結果がどうなるか?もしかしたら、それを問うこと自体に意味はないのかもしれない。出会いの結果がどうであれ、まず出会った。恋に落ちた。重要なことはきっと、それ自体なのだ。

最後に

付き合ってみれば何もかも正反対。生まれも育ちも、考え方も価値観も。だから毎日問題ばかり起こる。相手の言動に腹が立つし、しょっちゅう失望させられる。

ところが、一方で、どうにも惹かれてしまうところがある。他の誰でもない何か特別なものを感じる。理屈は分からないけど、実際問題、なぜかそういうことがあるものだ。

だから結局人が人を好きになるということは、計算ではなく「本能」が関係しているのはまさに、事実なのかもしれない。

世の中たくさんの人がいる。そして、そのたくさんいる人のなかから、ある一人を好きになる。それはある意味、とてもすごいことなのだ。だから頭であれこれ考えても、結局のところ仕方ない。その出会いは縁の一つ。きっと出会うべき理由があったのだ。

出典

『ブリジット・ジョーンズの日記 ダメな私の最後のモテ期』