人間は生まれた時からどう考えても不平等だし、人生航路も、ある人には順風が快適な航海を保証してくれるのに、別の人には逆風が吹き荒れる。そして、それにもかかわらず、みな結果で人を判断し評価するのだ。
中島義道
綺麗事を抜きにすると、人生は平等ではない。幸せになる権利はあるかもしれない。しかし現実問題、誰もがかんたんに幸せになることはできない。
人生、生まれながらにしてイージーモードの人間もいるし、人生生まれた段階から超ハードモードの人間もいる。
例えばこういう話
考えてみるといい。
父親が貧乏でアル中で常に暴力を振るっている家庭。子供の教育に関心がなくロクなものも食べさせない家庭。母親が子供をほったらかしで男を作って遊びに出ている家庭。
そんな家庭で生まれ育つのと、まともな家庭で生まれ育つのとはでは、そもそも人生のスタートラインが違ってくる。それは決して否定できない現実だ。
つまり人生は、生まれというスタート時点の段階で、既に恵まれているもの、そうでないものの不平等が生じており、その差は限りなく大きい。
このことを考えると、「人生努力、何もかも自分次第」という自己責任論をドヤ顔で言えるのは、恵まれた立場の人間だけである。
確かに世の中はアンフェア過ぎる
更にもう一つ指摘せざるを得ないのは、人は生まれながらにして不平等であるにも関わらず、世の中は人を結果でしか判断しないという現実である。
大学へ行けないのも、人生詰むのも、不幸になるにも、いろんな要因があって、スタートの時点。つまり「生まれの格差」は実際問題、かなり大きい。
ロレックスをしてフェラーリを乗り回している金持ちのボンボンは、自分の実力でそれらを手に入れたわけではない。ただ親が金持ちだったから、それができただけなのだ。それは「生まれ」という運以外、何の理由もない。
一方で、生まれたときから環境に恵まれず、大学へ行くお金がないがため、上昇しようとする意欲が奪われる環境で、一生を過ごさざるをえない人もいる。
にも関わらず、「君の努力が足りないのです」と世の中から一方的に断罪される現実があまりにアンフェア過ぎるのは確かである。
だから自分をだまさなくてもいい
このように、世の中は憂鬱で、不平等としか言いようがない現実があることを否定することはできない。
どう控えめに考えても、人生誰もかもがチャンスに恵まれているわけではないのである。もっと言えば、人生最初の段階で「負け」が約束されているかのように思える人生もある。
だからこそ非現実的な平等意識を持っていると、それによって人生、足を救われてしまう。偽善はいつでも耳心地が良いが、その真実はただただ、残酷である。
この意味で、「人は生まれながらにして平等である」という、世の中を建前に違和感を抱くことは極めて精神的に健全である何よりの証拠である。別に恥ずかしいことでも、非社会的なことでも、何でもない。
ではどうするか?
以上、耳が痛いことばかり書いてきたが、現実は現実である。「不都合な真実」を認めることは、なかなか苦々しいところもあるが、今そこにあるものを否定しても仕方ない。
とはいえ、私はここで「だから人生頑張る意味がない」と言いたいわけではない。
むしろ不平等な現実の中にこそ、自分が生きる意味や価値を見出す源泉があると言いたい。つまり、人生が不平等である現実を受け入れるからこそ見えてくるものがあるのである。
それは、人生にただただ不満を抱くだけでは決して気づくことができないことである。なるほど、「自分はこんなにも不利なスタートだけれど、でも」現実を受け入れ、それでも前に進もうと決意したとき。
本当の意味で自分の人生がスタートする。
最後に
人生の不公平さ。不平等な現実に文句を言うことはかんたんである。そしてそれを言い続けている限り、目の前の現実は変わることはない。
しかし、人生何ができるのか、自分の人生どこが欠けていてどう補うのか。それを突き詰めていくと、自分しか歩めない道があることに気がつく。
そこに来て初めて、人生は不平等だけど、だからこそ意味があることに納得してしまう理由が見つかる。人生はそんな逆説があることを、知っておく価値がある。
つまり人生は不平等だ。納得できない現実もあるのは事実だ。だからこそ前へ進む。不平等で不公平だからこそ、現実において最善を尽くす価値があるのだから。
出典
『非社交的社交性』