
演よ、信ずるということは、理屈の外にあり、それゆえに不思議な力を持っている。われは礼を尊び、理を好むが、礼も理も棄捐(きえん)される世を生きのびてゆくためには、人界の外にあるものを信じなければならぬ。
鐘繇(『三国志名臣列伝 魏篇』より)
私たち現代人の多くが囚われている傾向。それが、「理屈」である。
何かをしようとすれば、「それは自分にとって得なのか?」「正しいのか?」「効率的なのか?」という思考に囚われ、誰かの言葉を聞くときも、「その言葉にエビデンスはあるか?」などと、無意識にブレーキをかける。
私たちは日々、データや理論、証拠、コスパ、数値など、「目に見える理屈」によって、縛られている。
だが、ふと立ち止まって考えてみてほしい。私たちの人生には、理屈では完全に説明しきれない「何か」が確かに存在しているということに、あなたはすでに気づいているはずだ。
たとえば、あなたの人生に大きな影響を与えた人のことを思い浮かべてみるといい。その出会いは、あなたの完全なる「計画」によってもたらされたのだろうか?今就いているその仕事は、すべてあなたの「合理的判断」だけで選ばれたものだろうか?
その答えは、必ずしも「イエス」とはならないはずだ。よくよく振り返ってみると、そこには理屈だけでは説明できない「流れ」や「感覚」が働いていたことに、気づくのではないだろうか。
はじめに:常識が「棄捐(きえん)」される時代の生き方
中国の三国時代、魏に仕え、書道の祖としても知られた鐘繇(しょうよう)は、混乱を極める時代の中で、「信じることは、理屈の外にある」という認識を持っていた。
理も礼も、昨日までの常識すらも、かんたんに捨てられていく乱世。そんな時代を生き抜くために彼が必要だと考えたのは、単なる戦略や計算だけではなく、人知を超えた何かを信じるという姿勢だった。
昨日の正義は今日の悪となりうる。英雄は一夜にして戦犯になる。それは、常識がいともかんたんに棄捐されるという、世界の冷酷な現実である。
令和の今、私たちが生きているこの世界は、連続性を伴う、秩序ある世界のように見える。だが実際には、価値観や正解は常に更新され、過去の成功法則が突然通用しなくなることも珍しくない。
だからこそ、理屈という「前例主義」を絶対視するのではなく、理屈では掬いきれない領域にも、意識を向ける必要がある。理屈を捨てろ、という話ではない。理屈を「唯一の拠り所」にしない、ということだ。
「理屈」ではなく「感覚」を羅針盤にする
では、そのためにどうすればいいのか。
それは、理屈を「正解」に固定するのではなく、「人界の外にあるもの」、つまり自分の中にある感覚を、もう一つの羅針盤として扱うことだ。
根拠を求めてもいい。データや理論を参考にしてもいい。ただし、それらを過信しすぎない。同時に、言葉にならない違和感や、肌感覚、直感といった非言語的なサインにも、注意を払う。
たとえば、AとB、2つの選択肢があるとする。理屈の上では、Aを選べば「得をする」と分かっている。だが、Aを選ぼうとすると、なぜか気が重く、違和感が残る。
一方で、Bは合理的に見れば大きなメリットはない。しかし、Bを想像すると、心が自然に動き、妙にしっくりくる。
これらの感覚に、科学的な証明や客観的な裏付けはない。それでも、この感覚を無視せず選択した結果、後になって「あれでよかった」と思うことは、決して少なくない。
自分を信じるとは、自らの「本能」を尊重すること
「自分にとって」の正解は、必ずしも理屈の中には存在しない。
なぜなら、人生における正解は、人それぞれ違うからだ。だからこそ私たちには、「人界の外にある」かのような、自分固有の感覚が備わっているのかもしれない。
自分を信じるとは、万能であると思い込むことではない。自分の感覚を絶対視することでもない。ただ、自分の内側から発せられるサインを、無視せず、軽んじないということだ。
理屈にこだわりすぎることは、知らず知らずのうちに、「自分以外の何か」に正解を委ねてしまう行為でもある。その結果、「理屈上は正しいはずなのに、なぜかうまくいかない」という現象が起こる。
人は本来、自らを生かそうとする本能を持っている。極限状態で理屈より先に体が動くのも、そのためだ。自分の感覚とは、その本能が静かに発しているサインなのだろう。
最後に
人生で、「礼」を尊んでもいい。「理」を好んでもいい。だが、それだけでは、流転し続ける世界を生き抜くには足りない。
「データ上はこうだから」
「理屈はこうだから」
「計算上こうだから」
「専門家がそう言っているから」
こうした理屈の積み重ねを否定する必要はない。ただ、それだけを唯一の判断基準にしてしまわないことだ。
そこに、自分の感覚という「もう一つの視点」を加えてみる。これこそが、「人界の外にあるものを信じる」という姿勢なのだと思う。
見えないからといって、存在しないとは限らない。証明できないからといって、間違っているとも限らない。答えを探すために、私たちはきっと、もう少しだけ、自分を信じてもいいはずだから。

