幸せなら手をたたこう
幸せなら手をたたこう
幸せなら態度でしめそうよ
ほら みんなで手をたたこう
坂本九
自分自身の意思を態度で示すこと。それは私たち自身が自らの運命に影響を及ぼすための重要なアクションである。
「私は◯◯であると考えています。ゆえに」という意思を持っていたとしても、それを表明せずに黙っているだけではあまり意味はない。だがその意思を態度として外に対して表明し始めたとき。それは現実において、影響力を発揮し始める。
だからこそ重要である。それがイエスであれノーであれ、私たち自身の考えを態度で示すことが。
はじめに
良いことは良い。悪いことは悪い。受け入れることができること。絶対に受け入れたくないこと。近年は自分の意思を態度として示すことの重要性が、ますます高まっている。
世の中の潮流や誰かが作った流れに無自覚に流されるのではなく、自分なりの判断基準を持った上でイエスにはイエス、ノーにはノーと、自分自身が感じたことを尊重することが大切である。
それは逆に考えると分かりやすい。自分自身が感じたことや自分の考えを軽視し、誰かが言うことを無自覚に受け入れ、それに流される。その先に待ち受けている未来は素晴らしいものだろうか?
「態度」として示す意味
「私はそれに賛成です」
「私はそれを受け入れることができません」
自分自身が考えていることをイエスorノーの態度で示す。それによって私たちは、自らの考えを第三者に伝えることができる。
「沈黙は金なり」というものの、現実の話として黙っているだけでは物事はそれを進める人によって一方的に進められてしまうだけである。なぜなら、黙っていることイコール、「あなたはそれを受け入れるのですね」と理解されるからだ。
いわゆる「声が大きい」人の主張は通りやすく、「声が小さい」人は「声が大きい」人の言いなりになりがちであるなのはそういう理由からである。
だからこそ私たちが自分の人生を大切にしようとするのであれば「思う」「考える」だけでは不十分である。受け入れられることにはイエスを、受け入れられないことにはノーを。態度としてはっきりと、示す必要があるのである。
自分の人生を「人任せ」にはしない
自分の意見を態度で表明する。それは「自分の人生を人任せにはしない」という表明である。
人にはそれぞれ、大切な人生がある。自分の人生をどう生きるか?それは決めることができるのはその人だけであって、誰かから「あなたはこのように生きなさい」と強制されるものであってはならないと私は考える。
「長いものには巻かれろ」とはいうものの、現実問題長いものには巻かれ続ければ、その先に待っているのは誰かに自分の人生の主導権を委ねる未来であり、それはいわば自分の生殺与奪の権限を第三者に譲渡するに等しい。
損か得か、そんなことは関係ない。重要なことはその人生で「何を得たのか?」「何を成し遂げたのか?」以上に「どのように生きたのか?」であり、それは「自分の生き方は自分で決める」という、当たり前の話なのだ。
最後に
私たちには人として自然な直感が備わっている。それは「生きよう」とする意思である。それは「より良くなっていきたい」という人としての本能と言ってもいいだろう。
だからこそ私たちは、頭で考える前にまず直感として、「これは良い」「これはおかしい」と自然に感じることができる。
近年は個人の直感や感覚が軽視され、理論や理屈、権威を持つものの発言が信頼でき、そして素晴らしいことのように錯覚させられる。だが誰が何をどう言い繕おうとも悪いものは悪い。おかしいことはおかしいし、間違っていることは間違っている。
第三者が主張する事柄をただ黙って受け入れることはとてもかんたんである。それが正しいと思えるのであればそれでもいいだろう。だが「それを受け入れることはできません」となったとき、黙っているだけではその先に待ち受けている未来に希望はない。
それを受け入れることができなら受け入れる。受け入れることができないなら受け入れない。自らの態度で、その意思を示すことが大切なのである。私たちは微力かもしれないが、無力ではないのだから。
出典
『幸せなら手をたたこう』