手に入れ損ねたのであれば、それは、手に入れるべきものではなかったのだ。
ノーマン・V・ピール
人生において、私たち自身の心の持ちようや意識、そして行動によってどうにかなることはたくさんある。その一方で、私たち自身ではどうにもならないものも確かにある。
例えば縁。私たちの人生において、縁のない人々、縁のない物事、縁のない場所とは、私たちがいくらそれらと関わりを持とうとしたところで、その縁は驚くほどかんたんに、途切れてしまう。
そこで「手に入らないものはなにもない。叶わないことはなに一つない。誠意は必ず通ずる」などと、それらに執着してこだわり続けることは個人のチョイスとして可能である。そしてしばしば私たちは、本当は執着すべきできないことに執着してしまう。
だが縁がなかったことにはそれ相応の理由がある。私たち自身の人生を尊重し大切にするために、「縁がなかった」という事実を前向きに捉えることが大切である。
はじめに
「来るもの拒まず、去るもの追わず」という言葉はもはや説明不要なレベルで日々実践したい素晴らしい言葉だが、一つここに付け加えたい。それは「来ないもの追わず」という言葉である。
私たちがそれぞれの人生で出会うものや手に入るもの、過ごすことになる場所といった諸々の縁は、それがそうなるだけの必要性、そして必然性がある。
逆に言うと、私たちの人生において必要がないものは、私たちがそれを意識するしないに関わらず、「手に入れるべきものではなかった」状態になる。
だからこそ執着しないことはとても大切で、それと同時に今、私たち自身の人生において何かしらのご縁があった物事は大切にして、それ相応の注意と敬意を払う必要があるのである。
縁がないものは縁がない。だからこそ縁があったもの、それがいかなるものであれ、そこには何かしら、「私たちの人生において知るべきものやこと」があるのである。
私たちにはそれぞれの人生がある。それぞれの人生で、それぞれの学びと気づきがある。だからこそ人生において必要がないこととは、離れるようになっている。
失敗の裏側にある「反転した幸運現象」
例えばあなたは仕事を探している。そこで会社Aでは不採用となるが会社Bで採用された。あなたは会社Aに縁がなく会社Bに縁があった。そして、会社Bに就職後、そこがとんでもない会社であることが判明した。
なぜ会社Aではなく会社Bに縁ができてしまったのか。それを「マイナス」と捉えることはかんたんである。そしてそれは確かに、「現時点」といった短期的な視点ではそうかもしれない。
だが「その後の人生」という視点でその経験を見つめ直せばあら不思議。会社Bを知ることになったいう経験が、それがあなたの人生で何らかの意味を持つ可能性がある。
すなわち、「とんでもない会社で働くことになってしまいました。そこで働く人を見ました。ブラック企業とはこのような会社でした」という経験を知識ではなく現実として体感する。その経験がその後のあなたの人生の至る場面で働き始める。
経験はやがて反転する。最悪は最高を知るための過程であり、必然である。失敗を時間の無駄と考えることは容易である。そして失敗は可能な限り早く損切りすることは吉である。だが失敗は失敗として確かに、それをするだけの意味がある。
会社Bで経験した学びは、知識ではなく体験としてあなたの無意識に刻まれる。それはあなたのその後の人生の様々な場面で働き出す。体験はリアルな経験であるがゆえに、それはある種の生存のための情報として蓄積される。
例えばヤバい現実を知った人にはしばしば「この人はヤバい」「この場所は近寄らないほうが良さそうだ」などの直感が鋭くなることが知られている。それはヤバい現実を知った人だけが手にすることができる、ある種のスキルである。
危険を知ることは安全を知ることである。会社Bで垣間見たヤバい現実を経験することであなたはより的確に、「自分がいるべき場所」「安心できる場所」に対して敏感な感覚を得ることができる。
人生ではこうした「反転した幸運現象」はしばしば起こる。「あの職場で失敗して良かったです」「◯◯と縁がなかったことはむしろ、ラッキーでした」という現実は、確かにある。
「今」「ここ」に未来へつながる気づきがある
私たちは日々、様々な縁によってその人生を彩られる。ともに歩む人。することになった仕事。関わることになった場所。そうした諸々の縁とともに、私たちは人生を歩む。
人生を歩むなか、私たちは「手に入れるべきでないもの」「関わるべきでないもの」「いるべきでない場所」とは縁が切れるように促される。だからこそ、どれほど最善を尽くしてもうまくいかないことはうまくいかない。それは決して悲報ではない。
ここで大切なことは、「最初から縁がないことはあきらめろ」ではなく、「人事を尽くしてそうなったのならそれが結果として最善である」ということである。
「そうなってしまった」という結果は、私たちに縁があるものと縁がないもの、私たちが進む道と進む必要がない道を教えてくれる。理由はそのとき、わからない。だが必要な時間を経た後振り返ったとき、「(結果として)それでよかった」という結論にたどり着く。
それと同時に明確な真実に気づく。私たちは自分の道に進むにあたり、必要なものは適宜、与えられているということに。
それに気づくか気づかないかは私たち自身の現在における心的態度である。すなわち、現在の目の前の状況に対する私たち自身の心構えである。今ここで、必要なことに気づき学ぶ。それは今学ぶことに意味がある。それはその後の未来で、必要なことなのである。
私たちの人生において日々起こる出来事は点である。点を一つ一つ見るだけではその意味がわからず、「良い」「悪い」という二元論で点を理解しがちである。だが点はいつか線となる。そのときこそ、ようやく起こった出来事の本当の意味を、理解することができる。
最後に
「酸っぱいブドウ」という表現がある。いわゆる「負け惜しみ」のたとえなのであるが、それは程度と場合による。
自分がやるべきことをせず他力本願な姿勢で物事が成就せず、負け惜しみをすることは自分の品格を貶めることなので、それは避けたいことである。
だが人生にはしばしば、「よくよく冷静に考えてみれば、なぜあれを手に入れることにそこまで、執着してしまったのだろう。私はそれを心から欲していなかったのに」ということは実際に、ある。
それだけでなく結果論として、「手に入れるべきものではなかった」ものは確かに、ある。さらに言えば、「手に入れてしまったがゆえに」起こってしまう問題もある。
いずれにせよ重要なのは、「手に入らなかったもの」は現実として私たちの手元にはないという事実である。ゆえにそれは「私たちの人生において縁がなかったもの」。その事実をどのように考えるかは私たち次第である。
「それに縁がなかったのは、それは縁がなかったことが最善だからだ。だから私は、私に縁があるものを大切にしよう。新たに縁があるものを探そう」と前向きに理解することができる。
その一方で、「私はそれを必死に求めました。でも手に入りませんでした。努力は無意味です」と後ろ向きに考えることもできる。では、どちらの考え方が私たちにとってプラスになるのか、である。
重要なのは事実それ自体というよりも、起こった出来事の受け止め方である。それによって私たちは、出来事を喜劇にも悲劇にもすることができるのだから。
出典
『積極的な考え方の力』