自然界に存在する以上、人に優劣や無価値な存在などあるはずがないのです。一人ひとり存在すべき場所と果たすべき役割があるのです。
荒谷卓
どんな人生にも意味はある。なぜなら私たち一人ひとりが固有の存在だからである。誰一人としてこの世界に同じ人は存在しない。この意味で大切なことは「人生で何を実現したか?」というよりもむしろ、「人生をどのように生きたか?」という視点である。
私たちは一人ひとり固有の存在であるがゆえに、自分がいるべき場所、そしてすべきことは違う。人生の答えは一人一人、違う。だからこそ比較は意味をなさない。
だがあえて「人生の正解」なるものを決めるのであれば、その答えは案外シンプルなのかもしれない。
「自分の役割を果たし、他者と共存した上で、後悔のない生き方ができたかどうか」
はじめに
私たちは良きにしろ悪きにしろ、「自分」という存在から離れることはできない。なぜならこの世に生まれた瞬間から最後まで、ただ一人、自分の人生において登場し続ける人物こそが自分だからである。
人生という旅路において、最初から最後まで、自分という存在が付き添い続ける。そしてその自分という存在は文字通りの固有であり、他の誰とも違う。それは遺伝子云々の話だけでなく、生まれた環境や与えられている諸条件など、文字通り「すべて」である。
そして、それは自分だけの話ではなくて、近所のAさんもそうだし、職場の同僚のBさん、友人のCさんも同じである。
ということは、である。誰もが皆自分が自分としての固有の個性を持つ存在だからこそ、人それぞれに役割があるのではないだろうか。何らかの役割を持つからこそ、「人に優劣や無価値な存在などあるはずがない」という言葉は、確かではないだろうか。
生き方とはテーマ、テーマとは役割。
誰もが皆、自分という固有の存在としてこの世界に存在しているならば当然、その存在が固有であるがゆえに人それぞれの在り方、目的は異なる。だからこそ人それぞれ固有の生き方や人生のテーマを持っていると考えることは自然である。
人生のテーマは「役割」と同義である。「役割」は何らかの目的があってこそ、演じられるものである。だからこそ私たちはそれぞれの人生で、様々な人々と出会い、出会いから生まれる様々な物語を織りなす。
そして言うまでもないことだが、その物語もまた何一つ、同じ物語は存在しない。同じ物語が存在しないからこそ、正解はない。一歩一歩物語を紡ぎ出す上で私たち自身が、物語の結末を、描いていくのである。
紡がれるすべての物語に優劣はない。
なぜ私たちは自分自身を大切にするだけでなく、他者を尊重し協調し合うのか?それは言うまでもないことだが、私たち自身が固有の存在であるだけでなく他者もまた、私たちと同じくこの世界に同じ人が存在しない固有の存在だからである。
自分が固有の存在であり、自分を尊重し大切にするという考え方は、「自己承認欲求」と混同されがちだが、自分の生き方を尊重することは「自分だけ」「自分さえ」ではなく、他者の生き方も尊重することでもある。
他者を尊重することは他者だけでなく自分自身も尊重する在り方である。だからこそ私たちは自分の役割を果たすと同時に、他者と共存していくことが大切なのである。
日本には古来より「お陰様」という言葉がある。この世で織りなす様々な人々に対して敬意を示す言葉であると理解している。物事はお陰様だからこそ、「世のため人のため」がみんなのための「ベター」になるのである。
最後に
年齢を重ねるごとに、「人生は舞台である。そして私たちはみな、役者である」という言葉の意味を、しみじみ考える。
なぜ自分はAさんやBさんではなく自分なのか。なぜ今という時代に生を受け、この国で生きているのか。AさんやBさんの人生で起こらないことが自分の人生に起こるのか。
それを「偶然です」と考えることはできるし、「寿命という限界を抱えた人という物質的な存在」と理解することもできる。だが、果たして本当にそうなのだろうか。私たちは何かの目的があるがゆえに、自分という役割を演じている。そんな気がして、ならない。
だからこそ逆説的な話だが、最終的に私たちは「自分」という視点から脱却するのではないだろうか。「自分のため」を経験することは成長の一過程であり、旅の一コマである。だがそれは決して、「目的」ではないのである。
出典
『サムライ精神を復活せよ!』