
年よりっぽい、とか、一種の諦めだとか言われそうだが、私も次第に自分の人生をほかに移しかえて考えなくなった。
小説家になるため巴里に生まれておればよかったとか、もう少し頑健な体を持ちたかったとか、昔は色々と他を羨んだこともあったが、今では「私は私、これでよし」と自然にそう思うようになってきた。
そのかわり与えられた状況や条件を最大限に活用して、それを享受し、あらゆる角度から(文字通り)満喫するのが「生きる」ことだとも思うようになった。
遠藤周作(『私は私、これでよし』より)
私たちのほとんど、と言っていいと思うが、多くの方が大人になる成長の過程において、少なからずこのようなことを言われたはずだ。「(あなたと比べて)◯◯さんはこうですよ」と。
その言葉は、もしかしたら親切心や「よりよくあって欲しい」という善意から発せられているかもしれない。そして、ときに誰かと自分を比べることによって学べることもある。だが、それは本当に正解なのだろうか。
私たちは皆それぞれ、「違うスタート地点」から人生を歩み始める。そして、Aさんにとっての正解が、BさんやCさんにとって不正解にもなりうる。なぜなら、AさんとBさん、そしてCさんの出発地は違うし、それぞれが利用できるリソースや環境も違うからだ。
だからこそ「私は私、これでよし」。与えられた状況や条件を最大限に活用して、それを享受し、あらゆる角度から(文字通り)満喫することが、「生きる」ことではないだろうか。
はじめに
人生の答えは、人それぞれ違う。
だからこそ、「あなたは、この道が正解です」と押し付けられることや、「他に選択肢がない」と錯覚させられることに違和感を覚えるのは、自分が自分であるための自然な反応である。
世の中には、「◯◯が偉い」「△△が正解だ」など、誰かが決めた様々な価値観が流布され、ときに一方的に押し付けられる。それらについて「全面的に間違いである」と言いたいわけではない。
ある人にとって、それは確かに偉いことだし、正解であることもあるだろう。だが、ここで問うべきは「私にとって、どうなの?」ということである。
正解は「一つだけ」ではない
学校へ行く。勉強する。良い成績を得て大学へ進む。企業や役所に就職する。組織のなかで出世する。それはひとつの生き方だし、「この生き方が自分らしい」と感じる人にとって、それは人生におけるひとつの正解だろう。
だが、それこそが「唯一の正解」であり「正しい生き方」であると押し付けられることは、話が違う。もしそれが唯一であり正しい選択であるなら、大学を出ないこと、組織に属さず個人で糧を得る生き方は「間違い」になってしまう。
ごく自然に考えれば、そんなはずはないだろう。本来、私たちは望むなら大学へ行ってもいいし、高校を出て働いてもいい。働いたのち、大学もしくは専門学校へ行くことだってできる。
そんな柔軟な生き方だって、選んでいいはずだ。正解は決して、「一つだけ」ではないはずだ。
自由の価値。それは個人の選択に宿る
この世界には、いろいろな人がいる。いろんな生き方を選ぶことができる。いろんな道を選ぶ人がいるからこそ、世界が全体として成り立つ。
皆が皆、同じ職業を選んだら。金太郎飴のように同じ行動をするならば、この世界は回らない。そして、生き方の選択はあくまで自分で選び、決めるべきものであり、そこに誰かから押し付けられる「正解」はない。
もし皆が同じ生き方、そして在り方を「是」とする世界があるなら、それはいわば白と黒しか存在しない世界だ。
白と黒しか存在しないからこそ、私たちが自らの意思で選べる道が、「この道は正解もしくは失敗」というかたちで制限される。その行き着く先は、ジョージ・オーウェルが描いた『1984』の世界である。
おかしいことをおかしいと言ってはいけないし、感じてもいけない。それは、既に決められたものを受け入れるだけの、脱人間的な世界である。
『1984』について
イギリスの作家ジョージ・オーウェルが1949年に発表したディストピア小説。24時間監視される独裁国家で、自由な思考や真実さえも奪われる恐怖を描いている。
そこにあるのは、たった一つの「自由な思考」を持つことさえ許されない、究極の絶望的な未来である。
「自分の道を歩む」という価値
人はそれぞれ、出発点が違う。与えられた環境、利用できるリソースも違う。だからこそ、自分だけが選べる生き方がある。
そしてそれは、「正しい」「成功している」などと外部によって価値を測られるべきものではない。問うべきは、「私は私、これでよし」と自然に自分で思えるかどうか。ただ、その一点である。
自分が持っているもの、使えるものを知る。それを自分なりにフル活用する。そのなかで進める道であれば、それでいい。
それは唯一無二の道であり、「それを享受し、あらゆる角度から(文字通り)満喫する」ことだって、できるはずだ。
最後に
2021年頃から、私が注目している市井のジャーナリストがいる。
その方が先日YouTubeで、海外のアナリストを交えた非常に興味深い対話を行った。その動画のコメントのなかに、その方と他者を比較するようなコメントがあった。
それに対して、そのジャーナリストの方は、「私は、私です。なぜ、比較するようなコメントをするのですか?」と反応を示した。私はその姿勢がとても凛としており、その方の人生観、生き方を反映していると感じた。
そう、私たちは私たちで、それぞれの在り方を大切にすればいい。比較は結局、「良い」「悪い」という二項対立の思考に陥りがちである。そんなことをする必要はない。「私は私」として自分の軸を持ち、生きていけばいいのだから。

