人間は誰でも、自分自身のクビがかかっている人のほうを向くものなのである。
塩野七生
理想は理想。ただし現実は現実。
私たちは崇高な理念を持ち、人として正しく生きることこそが素晴らしい人生であると考える。白は白、黒は黒と明快に物事を割り切り、己の信じる正義を貫くことはそれはそれで、清い生き方なのかもしれない。
だが現実は「智に働けば角が立つ情に棹させば流される」世界であり、白はときに灰色となり、黒はまた、白となる場合もある。すべての物事に絶対はなく、「正しいこと」でさえときとして「あやまり」となることもある。
ゆえに大切なのは1にも2にも柔軟性。自分自身の信念という核は維持しつつ、現実対処が必要である。
はじめに
人生とは誠に不思議なもので、思わぬ人に追い詰められ、そして思わぬ人に助けられる。それが起こるには一定の条件があるのだが、その要諦はずばり「因果応報」である。
すなわち、他人を裁くものはやがて自分も裁かれ、他人を助けるものはやがて自分も助けられる。この世界には、そんな不思議なルールが存在しているようだ。
だからこそ、たとえ自分に「正義」があったとしても他者を裁くことなかれ。「正義」を大義に他人を裁き続くことによって、その「正義」はやがて自分自身に牙を向くことになるからである。
なぜならこの世界に「絶対」はない。自分の正義は自分の正義。他者と同じ正義を共有していると信じ、それを押し付けるは罠である。
正論は確かに正しい。
「間違っていることは間違っている。正しいことは正しい。ゆえに正しいことは遂行すべきである」
これを正論と言う。
それは理屈としては間違ってはいない。そして自分の側に正論を振りかざすことができる条件が揃っていれば、それは自分の武器になる。その行為自体、それをするだけの一定の根拠はあるだろう。問題は、それをどう用いるかどうか、である。
正しいことを主張する。正しいことを実行する。その結果、誰かを不要に誰かを傷つけることもある。
だからこそ自分に正義があると思うならば。正論を述べる優越的に地位を確保できたなら。それによって相手がどう思うのか。相手の人生にどのような影響を及ぼす可能性があるのか。想像する余地を持つことが大切である。
「情けは人の為ならず」ゆえに。
「良い行動」は「良い結果」を招くか?
「正しいことをした結果、世界は正しくなりました」
そんなシンプルな因果関係がこの世界にあるならば、何も迷う必要はない。だがこの世界とは必ずしも黒が黒とは限らず、ときに灰色となり、白となる。
塩野七生さんはその著書『ローマ人の物語』で「すべての制度はそれが生み出された当時、それが善なる目的で作られた」という趣旨のことを述べている。
だが歴史という「結果」は幾度も、「これは正義です」という発想をもとに行われた行動によって人々をその意図とは逆の結果に導いたという現実を幾度も私たちに示す。
これは国家という大げさな話に限らず、我々一般人の日々の小さな行動にも同じことが言える。正論を振りかざし他者を裁く者は、たとえ正論が正論だったとしても、やがてその害は自らに及ぶ。
だからこそ「清濁併せ呑む」。世の中は白黒だけではまかり通らない。それにはきっと、相応の理由があるはずである。
最後に
人には様々な事情がある。立場がある。「私にとって◯◯が正しいことです。ゆえに◯◯に反するものは裁きます」という執行者の立場は誠に気持ちが良い。だが、それを行う代償は大きい。
人生で大切なのは、目先のことばかりではなく、その先の先、長い目で物事を見ることである。
理想ではなく現実に立脚し、心の平和を保つ人生を目指すならば、物事を白黒で分けずにあえて曖昧な部分を残しておく。私の正義は私の正義として胸にしまいつつ、安易に人を裁かない。
「裁くものは裁かれる」というお約束を避けたいのであれば。
出典
『ローマ人の物語 キリストの勝利[上]』