なぜ結婚前に価値観のすり合わせが必要なのか?

幸せそうなカップル

先日、とあるYouTubeの動画配信者が相談者の悩みに答えている動画を見た。

「相談者のお相手は相談者との結婚を考えているが、相談者はお相手の年収に納得しておらず、別の相手を探したいがどう思うか?」という趣旨の内容である。相談を受けたYouTube配信者の反応は「相談者自身が考え方を改めなさい」というものであった。

この手のテーマは「結婚とは何のためにするのか?」という本質を理解するための格好の材料を私たちに提供してくれる。それは批判するためではなく、「自らの価値観を問い直す」という意味でとても有意義なテーマだと考える。

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はじめに

「私は年収◯◯◯万円~の人と結婚します」

それが意味する本質とは、「私はこの方とご縁があったから結婚します。人生をともに築きます」という人生的な視点に基づいた価値観ではなく、現在的な視点に基づく価値観であり、契約論的な思考がそのベースにある。

ここで重要なのは「年収◯◯◯万円」を条件に結婚にOK、もしくはNGを示す意味である。それは「あなたが年収◯◯◯万円、もしくはそれ以上でないと私はあなたと夫婦関係を保つことはできません」という宣言である。それはまさに契約である。

契約とは権利義務の関係であり、人と人、人間同士の信頼的なつながりを意味するものではない。ゆえに、その契約が結ばれた以上その履行は義務であり、契約不履行になればたとえ伴侶でさえその関係は驚くほどかんたんに解消されうる。「あなたは私との約束を反故にしたから」という理由で。

だからこそ、年収を条件に求める相手、すなわち結婚に対して契約関係を求める相手に対して距離を置く人が多いことは自然な反応である。今仮に「年収◯◯◯万円」という条件を満たしていたとしても、今後どうなるか、絶対の保証はできない。人生に想定外の出来事はつきものだからである。

必要なのは契約ではなく「協力」

結婚式で新郎新婦が「病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、妻(夫)として愛し敬い、慈しむ事を誓いますか?」という神父に「はい」と宣誓する。それは結婚を契機にして、生まれも育ちも違う他者同士が、同じ道を歩むパートナーとして協力し合い道を歩んでいくという意志の表明である。

結婚はゴールではなく始まりにすぎない。結婚後、いくら万全の備えをしたところで、想定しなかった逆風にさらされることは誰にでも、普通に起こりうることである。だからこそ夫婦が互いに協力し合ってこそ、家庭を守ることができる。

一方、「弱り目に祟り目」で助けを必要としているときに、最も助けを必要とする相手に後ろから撃たれることは痛恨の極みである。だからこそ賢明な人が結婚を決意するときに確認するのは相手の「条件」ではない。その思考。しいてはその価値観なのである。

繰り返すが、今現在の条件は今後、変わりうる。外見や性格、価値観、職業及びそれに付随するもの、あらゆる条件は変わりうる。

ゆえに、結婚というただでさえ重大な決断を下すにあたって、「私はあなたに◯◯という条件の結婚生活を約束します」という契約を結ばされるのは単純に重い。それに勇んで従うのは相当なチャレンジャーであるか、その意味を理解していない場合に限られるだろう。

同じ価値観を共有する相手を選ぶ

そもそも年収は人生の豊かさや安全性を必ずしも保証はしない。ほんとうの意味で自分自身のセーフティーとなるのは人間関係であり、資産ゼロになったとしても「私はあなたを助けます」という人がどれだけいるかである。

確かにお金があれば身近な生活のストレスは激減する。人生の選択肢を広げてくれる。失業したとしても、再就職するまでに生存の猶予を確保することができる。お金を使って人を動かすこともできる。

だが、お金で助けてくれる人はお金がなくなればあなたを助けない。「お金があれば何でもできるのだ」と現実を誤認すれば、最後の最後、お金にさえ裏切られる。ゆえに「結婚とは何のためにするのか?」というお相手の価値観のベースが一体どこにあるのか?その点を誤認する代償は大きい。

結局のところ、「私は年収◯◯◯万円~の人と結婚します」という契約の履行を迫る人はあなたが結婚の相手でなくてもいい。「年収◯◯◯万円」という条件を満たす人ならば、あなたではなく他の誰かであっても本質的には問題ない。

ではあなたは、選ぶ立場にしろ選ばれる立場にしろ、結婚に契約を持ち込む人生を選ぶか?自分自身で、「結婚とは何のためにするのか?」という価値観を今一度確認した上で、同じ価値観を共有する相手を選ぶことが、将来のトラブルと後悔を防ぐ。

最後に

表面的にどのように見えようとも、身近にパートナーがいても根底にある価値観が一致せず、心に何ひとつつながらない関係に信頼はない。

確かに生活にお金は必要だ。だが本当に互いを必要とし合う人々は、どちらか一方にその生活の安定を契約条件として要求するのではなく、互いに協力し合って生活する道を選んでいる。

価値観は人それぞれ。「結婚とは契約である」という価値観はそれはそれで個人の自由である。だが、自分が相手の契約を求めるということは、他ならぬ自分自身も相手への契約履行する義務を持つ。

結婚相手に年収という契約条件を求める場合、当然相手からもその条件の対価となる何かを契約条件として求められる。ゆえに、自分自身がその契約が果たせなくなったとき、相手より「契約不履行」によって捨てられることを想定する必要である。

すべての物事は変わりうる。人も変わる。だが「三つ子の魂百まで」。その人が持つ価値観はそうそうには変わらない。ゆえに「結婚とは何のためにするのか?」。自分自身の結婚に対する価値観を語った上で、お相手の価値観を確認しておくことは、とても大切である。