「運が良くなる方法」を探す前に知っておきたい大切なこと

笑顔の女性

人生の重要な事柄は、確かに運によって左右される。

「人生の成功を左右する出会いや転職、契機は運によってもたらされた」といった事例を挙げるまでもなく、あなた自身も普段の生活の中で、「運」の大切さを常に実感していることだろう。

だからこそ、「運を良くする方法を知りたい!」と考えるのは自然なことであり、その試みには十分な価値がある。しかし一つ、ここで「運を良くする方法」を探るにあたり、強く確認しておきたいことがある。

それは、あなたが「運が良くなる方法」を探すときに、「今の私は運が悪いです。だから運が良くなる方法を探しています」という意識がその背後にないか、ということである。この記事では、その理由についてご紹介したい。

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はじめに

最初に重要な結論をお伝えしたい。

「運を良くする方法」を探す人や、そういった情報を欲しがる人は、「(潜在的・無意識的に)私は運が悪い」と考えている場合がある。この場合の問題は、ずばり、「私は運が悪い」と考えている意識そのものに問題がある可能性を疑う必要がある。

意識は思考と言ってもよい。それは現実で起こることのベースとなる。なぜなら、私たちは私たちが注目するもの、意識を向けるものが拡大していくからである。

運が良い人はなぜ運が良いのか。その大きな理由は、そもそもの意識にある。運が良い人は普段から、「うまくいったこと」や「楽しいこと」、「ワクワクすること」に意識を向ける習慣を持っている。

普段から「快」の体験に意識を向ける。だからこそ脳や体はリラックスし、自然体を維持することができる。その上で、再び「快」の経験ができることを意識する。だからこそ、それらが意識に引っかかる。

こうした「正」のスパイラルを維持している人こそが、運が良い人の特徴である。

意識が生み出す「結果」

一方で、「私は運が悪い」という意識を(無意識に)抱いている人は、「私は運が悪い」と意識を向けているがゆえに、自分がそれを意識するかどうかにかかわらず、物事のネガティブな面に自然と意識を向けるようになる。

たとえば、あなたは今、外にいる。そこで「コンビニ」という言葉を頭に浮かべてみよう。すると、あなたは周囲にコンビニがないか、自然と探し始めるだろう。

これは、「自分が意識を向けたもの」に注意を向けるようになっているという仕組みであり、私たちの意識がしばしば検索エンジンに例えられる理由である。

それが何を意味するか?「私は運が良いです」と意識を向けることで、私たちは無意識的に運が良い何かを探し始める。逆に、「私は運が悪いです」ということに意識を向ければ、私たちは無意識的に運が悪い何かを探し始める。

これはシンプルな話ではあるが、とても重要なことである。

だからこそ、気づく。

意識を向けたものは拡大する。それは私たちの脳が、注意を向けること=大切なことであると認識するようになっているからである。

だからこそ、「(私は運が悪いから)運が良くなる方法を探しています」という人のもとには、当人が意識するかどうかにかかわらず、普段から運が悪いと感じることを自然と見つけやすくなってしまう。

その結果、「運が悪い」出来事が起こりやすくなる。意識が、運が悪いと感じる出来事をわざわざ見つけてくるからである。だからこそ、最初の「動機」に気づくことは非常に重要である。

かのパナソニックの創業者である松下幸之助は、人を採用する際に、求職者に対して「あなたは運が良いですか?」という質問をしたという。それに対して、「運が良い」と回答した人を採用し、そうでない人を不採用にした。

ここで重要なのは、実際に「当人が運が良いのか?」は関係ない。重要なのは「自己認識」である。

すなわち、(事実かどうかは関係なく)「私は運が良いです」と自分自身が意識しているかどうか、ということである。その自己認識の違いこそが、あらゆる物事に影響を及ぼすのである。

裏側に潜むもの

自分でも気づいていないことかもしれないが、「◯◯が欲しい」と考えたり、感じたりするとき、その背後には「◯◯がありません」という意識を隠し持っている場合がある。

なぜ、豊かさが豊かさを呼ぶのか。そして、なぜ欠乏が欠乏を呼ぶのか。その理由はまさに、ここにある。

「ある」という意識はさらに「ある」という現実を引き寄せる。その一方、「(ない)から欲しい」という意識は、その背後に「ない」という意識があるため、「ない」という現実を引き寄せる。重要なのは、建前よりも本音である。

「運が良くなる方法を知りたい」という欲求を持つこと自体は問題ではない。問題なのは、「(私は運が悪いから)運が良くなる方法を知りたい」という、欲求の背後に隠れている意識である。

本音は建前よりも現実化されやすい。だからこそ、「最初」に気づく必要があるのだ。

最後に

私自身、10代より山あり谷ありの人生を歩んできた。だからこそ、一時期は「運を良くする方法」について強い関心と興味を持ち、さまざまな方向から情報を収集してきた。だが、そうした試みはある時期を境に、一切やめてしまった。

人生は結局「塞翁が馬」であり、そのときそのときに起こる出来事に振り回されることに意味がないことを、学んだからである。

実際、「なぜ、こんな不運な出来事が私の人生に降り掛かったのか?」という出来事でさえ、後日「その出来事が起こった結果」を振り返ったとき、実際に「その出来事が起こったおかげで、結果的に私の人生は」となることを、度々思い知らされた。

こうした経験から、「現時点」で起こった出来事や日々の事柄について、「運が良い」「運が悪い」と判断することに意味があるのか、深い疑問を感じるようになった。

人生は短距離走ではなく、長距離走である。今成功していようが失敗していようが、楽しい日々を送っていようがそうでない日々を送っていようが、それは「今」の「状態」である。

すべてはやがて変わる。生きることの本質は、一つの状態を維持し続けることではない。きっと、人生の浮き沈みを通じて「経験すること」、そしてそこから「学ぶこと」なのだろう。