「○○が欲しい」は自然な欲求。何かを求めることで私たちは

願いを込める女性

欲望とは、生きる意欲を刺激するエネルギーである。

何歳になっても、

「○○したい」

「○○が欲しい」

という欲を感じたなら。その欲を否定しないことである。そして同時に、「○○がない」という状況を否定的に捉えないことである。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

はじめに

「○○が欲しい」は「○○がない」の裏返し。

お金がないときはお金を。愛がないときは愛を。自由がないときは自由を。私たちは、私たちの人生で最も欠けているものを切望する。

それを意識するしないに関わらず、私たちは自分の人生で欠けているものを欲し、探し、求め続ける。その結果、私たちの人生は独自のドラマに彩られ、それぞれの物語が紡がれていく。

この意味で、もしあなたの人生において今現在足りないものがあるならば。「欠乏感」というネガティブなイメージとしてとらえず、「可能性」というポジティブなイメージを持つことである。

すなわち、あなたがそれを求めているならば。それは示唆している。「これから何かが、あなたの人生で始まる可能性がある」ということを。

「○○がない」ことは悪いことではない。なぜなら

「○○がない」という状態が悲劇とは限らない。

お金がないからこそ、お金の価値を思い知らされる。愛がそこにないからこそ、愛することの大切さを学ぶ。日々ガチガチに縛られた生活をするからこそ、何者にも縛られない自由の尊さを実感することができる。

すなわち、「○○がない」という状態はいわば学びの体験である。「○○がない」からこそ私たちはより強く、その価値を認識することができるのである。

私たちが「必要とするものを持っていない」という状態を経験することは、その価値を学ぶために必要不可欠な、プロセスである。だから欲を肯定していい。それは本当は欲しいのに欲しくない態度を取る「すっぱいぶどう」より、ずっと健全である。

欲しいものを否定しない。否定すればそれは遠ざかる

私たちが人として成熟しているか否かを試される瞬間の一つは、「欲しいけど(まだ)手に入れることができていない」ものへの態度である。

確かエリック・ホッファーだったと記憶しているが、「人は自分が最も強く獲得を期待しつつ手に入らなかったものを憎み、否定する」という趣旨の言葉を残している。それはまさに至言である。

「○○はだめだ」と欲する対象を強く否定するのではなく、「○○が欲しい。だけれどそれが手に入っていない」という状態を自覚する。それによって、対象を手に入れる余地は残される。

世の中にはとてもシンプルな原則がある。それは、「人は自分が嫌うもの、否定するものを手に入れることができない」という原則である。

欲しいけど手に入らない。そこでそれを否定するか。それとも欲することを求め続けるか。その選択肢を選ぶのは、自分自身である。

最後に

欲を満たしたあとはほんのわずかの間、満たされる。そしてその刺激は、すぐに消える。そのような体験を繰り返した結果、最終的に人生で本当に必要なものはごく一部、限られていることに気づく。

しかしそこに至る前には、「○○が欲しい」という欲を尊重し、そして満たすという過程を経過する。

人によって現在地は様々である。あなたが今、欲しいものがあるならば、その欲を否定する必要はない。それを求めることはあなたの生きるエネルギーになるだけでなく、良きにしろ悪きにしろ、あなたが必要なことを学ぶ機会を提供してくれる。

この人生という旅路の中で、私たちは様々なものを求め、得て、失い、学ぶ。欲もまた、私たちが旅路を進むために必要な、エネルギー源なのである。