
私の考えでは狡猾な悪魔は自分が存在していないように我々に思わせるだけではなく、もう一つの罠も仕掛けているようである。
それは悪に対立する善の概念を混乱させることである。現代人に何が本当に善なのか、何が本当に正しいのか、わからぬようにさせることである。
正しいことがいつか結果的に悪となり、善きことがやがて悪を生むという例をあまりにも見すぎている我々は、やがて善に対して不信をいだき、善に対して迷いを抱きはじめる。それが悪魔の狙っている第二の詭計なのかもしれない。
それはともかく、今日、我々の周りには自分が悪をなしていますなどと宣伝する馬鹿はいない。すべての主義、すべての思想はそれぞれ自分の考えだけが正しく、善きものをもたらすと主張しているのだ。
遠藤周作(『狐狸庵人生論』)
「二項対立」という概念がある。
それは「善と悪」、「黒と白」、「男と女」という具合に、「AかBか」という2つの相反する概念に分けて、世界を見る。それはある意味シンプルで、わかりやすい物の見方である。
だが、私は疑問を感じている。「物事は黒か白か、そうかんたんに、分けることができるのだろうか」と。
なぜなら、冒頭に引用した言葉のとおり、世の中には、「私たちは善です。だから、悪を倒します」と言っている当人が文字通り悪を成すという現実や、白がときに黒に見えることも、少なからずあるからだ。
だからこそ、「AかBか」という2つにわけ、物事を捉えようとするその姿勢こそ、間違っているかもしれない。そう思うのだ。
はじめに
「私が正しい」という人は、必ず「間違っている人」を用意する。用意しなければ、その理屈は成り立たない。
「あなたは悪です」という人は、必ず「私は善です」と自分のポジションを主張する。そして、自分に「反する存在」を用意することで、自らを正当化する。
それは、「俺が正しいから、お前が間違っている」と、もう一方を否定することで成り立つ。つまり、「二項対立」という概念は常に、調和ではなく、争いを引き起こす。
悪魔なる存在がいるかどうかはわからないが、この世界が争いだらけになれば、悪魔も大喜びだろう。
そして私たちは、「すべての思想はそれぞれ自分の考えだけが正しく、善きものをもたらすと主張している」という現実を日々、目の当たりにしている。
「正義」が「悪」に変わる瞬間
「二項対立」は分断、そして争いを生む。この思考で物事を見ている限り、私たちは調和を見出すことはできず、常に敵や危険、悪いものを探し続けることになる。
世界を「AかBか」で見るとき、「安全」であるために、「危険」な存在を排除する。「得る」ために誰から「奪う」。「真実」を信じるため、それと異なることを信じる人や、自分とは違う考えを持つ人を「異端者」として裁く。
それは構造である。そしてそれは、永遠の争いへと続く道である。だからこそ、正義は容易に「悪」となり、調和や平和ではなく、災いを広げてしまう。
そして厄介なのは、そのとき人は自分が悪を行っているとは決して思わないということだ。むしろ、自分は正しいことをしているのだと信じている。
「正しい」人ほど攻撃的になってしまう理由
以前、この記事でSNSなどで見られる「正義マン」と呼ばれる人々について書いた。

彼らは、自分がしていることを正しいと確信している。そして、一面において、彼らの主張は必ずしも間違ってるとは言えない。だが彼らは、現代に蘇った異端審問官として、自らの正義に反する人々を、裁き続ける。
彼らのような存在は、特別なのだろうか?いや、誰でも、そうなりうる。「AかBか」という、2つの対立構造で物事を見続ける限り、あなたも私も、そうなりうる。
Aが正しいならBは間違っている。この世界の捉え方にこそ、問題の元凶があるからだ。
この世界は、2つに分けて「真実」を見定めることなどできない。この世界は、善がときに悪となり、悪がときに善になる、複雑な事象、多層構造を持つ場所である。
最後に
「あなたの存在は私の脅威です。だから、あなたに制裁を加えます。それは正しい行いです」
正義の名を借りた暴力は、罪のない無垢な人々を苦しめる。力を持つ者は、力を持つからこそ、その使い道の責任が問われる。
この世界は、「絶対的に正しいものがある」と信じた瞬間、そこには「絶対的に間違っているもの」が用意される。そして、遠藤周作さんが述べたように、「正しいことがいつか結果的に悪となり、善きことがやがて悪を生む」。
『アウターゾーン』で魔女からヒーローの力を授けられた少年が、その力を使いカツアゲを行う「悪」の高校生たちに「正義」の制裁を行った結果、少年が「通り魔」として指名手配されてしまったように。
正義のつもりで振るった力が、誰かにとっては暴力になる。もし私たちが「自分は正しい側にいる」と信じた瞬間、そのとき世界のどこかに「間違っている側の人間」が生まれてしまうのだとしたら。
それでも私たちは、世界を「AかBか」で見続けるべきなのだろうか。

