正義が正義であるために必ず必要なもの

ニヒルな男性

人はだれの審判者にもなりえぬことを、特に心に留めておくがよい。なぜなら当の審判者自身が、自分も目の前に立っている者と同じく罪人であり、目の前に立っている者の罪に対してだれよりも責任があるということを自覚せぬかぎり、この地上には罪人を裁く者はありえないからだ。それを理解したうえでなら、審判者にもなりえよう。

ドストエフスキー

先日、とある識者が「現在社会において「異端審問官化」する人が急速に増えている」と語っているネット番組を観た。「異端審問官」というと宗教的な響きがするが、そのときこの単語が宗教的な話として語られていたのではない。

「物事には絶対的に正しいものがある。それに反するものは悪である」という考え方、すなわち「私の正義に反するものは悪である、ゆえに」とする思考についての指摘である。

言わば「人々が正義マン化する傾向」についての指摘であるが、これは現代社会を生きる私たちにとって考える価値がある重要な指摘であると感じたので、この指摘について考えてみたい。

ここで言う正義マンとは、「自身の価値観を振りかざし、他者の言動に対して過剰な反応を示す人々」を指す。
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はじめに

映画やドラマ、ゲームなど、いわゆる創作の世界において正義が正義として人々に認識されるために絶対に必要な存在がある。それはわかりやすい「悪」である。

人々を苦しめる悪の魔王がいる。だからこそ悪の魔王を討伐する勇者は正義の存在であり、魔王の討伐は人々に拍手喝采される。これが創作の世界だけの話ならば問題はない。「悪は正義によって滅びました、めでたしめでたし」で構わない。

だが創作の世界とは違い現実世界には無数の正義がある。創作の世界のように「◯◯が正義です」というような単純な構図で物事を理解することはできない。

そして問題は、誰かが「◯◯が正義です」とその主張を振りかざすとき、その正義は必ずその正義を果たすために必要な悪が設定されるということである。

人が何を信じようともそれは思想信条の自由の範囲において許される。しかし正義マンは己の価値観のみを絶対視する存在である。ゆえにその行動は他者に対する独善的・弾圧的な色彩が帯びる。そしてそこには必ず、生贄が必要とされる。

「Aが正しいのであればBは間違っている」という思考

異端審問官。それは「魔女狩り」といった言葉とともに連想される中世ヨーロッパを由来とする言葉である。その概念を端的に説明するならば、「絶対的に正しいものに反する悪を摘発し裁く存在」と理解することができる。

異端審問官の歴史的事実はとても恐ろしいのでここでは書かない。興味がある方はご自身でそれを調べることをおすすめしたい。

「21世紀の現在、異端審問官は正義マンという形で日常に浸透し、一般の人々が自覚的もしくは無自覚的に異端審問を行っている」というのが冒頭でご紹介した識者の指摘なのだが、その本質はシンプルである。

「(私は◯◯を正義として認識しているが)それに反するあなたは間違っている(あなたは悪である)。だからあなたは正されなければいけない」という思考がそれである。

繰り返しになるが、自分自身が正義であるならば自分に反するものは悪として認識される。ここで重要となるのはこの思考(認識の方法)それ自体である。

正義は一つだけなのか?

そもそもの話だが、正義はそれを語る人によってどうとでも作り変えられる。たとえばあなたが学校や会社、「コミュニティ」に所属するという経験を通じて、人と人、様々な軋轢やストレスを経験しているだろう。

そのなかで、ある人がある人を「あの人は悪い人です」と糾弾する場面を目撃しているものの、よくよく状況を客観的に調べてみた結果、「あの人は悪い人です」と声を大きくして叫んでいた人の方が実は問題の張本人だった、という場面を目の当たりにする。

だからこそ人の評判やそこから醸し出される空気感、垂れ流される噂話を鵜呑みにすることなく、自分自身で物事の是非を調べることが重要なのである。

誇張でもなんでもなく、現代において違和感や疑問を感じたとき自分から情報を探しに行くという行動こそが、自分の運命を左右するといっても過言ではない。

「正しさ」よりも大切なこと

自分に正義があると確信する人がとかくしがちなのは、自らの正義を大義名分にして無自覚もしくは意図的に他者を悪者化する行為である。

言うまでもないことだが、その背後にあるものは「私は正しい。だからこそ正しい私に反するものは悪である」という思考である。故に冒頭の識者は「人々の正義マン化」を「現代の異端審問官」という言葉で表現したと理解している。

だが考えてみれば、この世界に絶対的に「正しい」ものがあるのだろうか?私には分からない。分かるのは、「正しい」という評価はそれぞれの立場や状況によって変わるということである。

つまりそれは自分にとって正しくとも、人によっては正しくないということもありうるということである。自分の正義を絶対視すればそれがもたらすのは混乱、そして独善である。

この世界にはいろんな正しさがある。そしてこの世界は一部の人たちだけの世界だけでなく、様々な人たちが共存する場所である。違いに対して折り合いをつけるために、お互いの違いを認め、尊重し、それぞれの正しさに白黒つけないことが大切だと思うのである。

最後に

「Aが悪い」の裏側には「(Aではなく)Bが正しい」という考え方がある。それはいわば、正と悪、白と黒の二項対立である。対立構造になっているからこそ衝突が必然的に発生する。

だがここで物事に白黒つけるような対立ではなく、あえてあいまいにしておくとどうだろう?それは対立を避ける日本的な発想で確かに悪い部分もある。だが、少なくともそこに息苦しさはない。

だが「Aは正しい、ゆえにBは間違っている」と二項対立が生じたとたんに息苦しさが漂う。Aだけが正しいのであればA以外のすべては発言権を失う。そこには「多様性」のかけらも存在しない。それはA以外のすべての人の口を塞ぐ行為に等しい。

そしてそれは究極的に、「少数の正しい人たち」が何が正しくて何が正しくないかを決める世界へと続いていく。そんな世界は本当に、素晴らしいのだろうか?

そう考えたとき、日本的な価値観である物事にあえて白黒をつけず曖昧にしておくことは、「共存」という意味において大切な役割を果たしているのではないかと思う。

曖昧さを残すということは余白を残すということである。余白があるからこそ余裕ができる。息苦しいよりも自由に空気が吸える方が伸び伸びできる。それだけは確かである。

追記

『アウターゾーン』(光原伸著、集英社)という漫画がある。そのあるストーリーに「悪をこらしめるヒーロー」に憧れる少年が登場する。

少年の父親はヒーロードラマでヒーローにぶちのめされる悪役を演じる俳優で、少年は父親に対して、「なぜうちの父さんは悪を演じているのだろう」と、失望している。

そんな少年はある日、魔女ミザリーからヒーローに変身できる魔法の腕輪をプレゼントされる。それを使えば普通の男が電話ボックスでスーパーマンに変身するように、一瞬でヒーローに変身することができる。

その力を使い少年は自身の「正義」を行使し始める。そんなある日、少年は小学生たちをいじめるチンピラ中学生たちを目撃し「正義」の制裁を行う。だが少年がヒーローの力を行使した結果チンピラ中学生たちに重症を負わせ、指名手配されてしまう。

そして少年は気づく。「正義」というのはそれ単体で成り立つことはなく「正義」でさえいともかんたんに「悪」になってしまう、ということを。とても印象的な話である。

出典

『カラマーゾフの兄弟(中)』