キレイに磨かれた鏡はくっきり物を映し出すけれど、映しだされた物がキレイに見えるとは限らないのよ。むしろ、見たくない部分だけが際立ってしまうこともある。鏡に罪はないけどね。
スカーレル
人はそれぞれ、自分というフィルターを通じ、この世界を見る。
結果、赤が青に見えたり、黒が白に見えたりする。みんなが同じ物を見たとしても、見えるものは一人一人違うのだ。
だからこそ、みんなが幸せに暮らせる理想郷は生まれないし、誰もが納得できる世界は作れない。そんなのは土台不可能である。
しかし、一方で、みんなが違う物の見方をしているからこそ、この世界に多様性と幅広さが生まれ、味わい深い世界が生まれる。
世界は違ってそれでいい
考えてみると、みんなが同じように感じ、同じような考え方でまとまっている世界ほど、退屈で気味が悪い世界はあるまい。
そういう世界は、「反対の意思表明」をすることが異端者の烙印となり、自分の思ったことも言えない息苦しいところになると相場が決まっている。
同じ考え、同じ発想の人が多い場所は、居心地がよいが、変化も進歩も多様性もない、金太郎飴の世界だ。
だからこそ、自分が理解できない人がいる世界、考え方が違う人がいる世界、分かり合えない人がいる世界こそ、自然で刺激的。本来あるべき、世界の形なのかもしれない。
成熟する過程として
人によって同じ世界を見たとしても、見えている世界が違う現実があるということを理解することは、ある意味一人の人間として、まっとうに成熟するために必要なことである。
なぜなら我々は、自分と他者との違いを認識することによって「分かってもらえる」という甘えを克服し、精神的に自立することができるからである。
例えば子どもが自分の思い通りにならないと泣きわめくのは、「分かってくれる」と周囲の大人に甘えているからである。
自分はこのように世界を見ている。だから周りもそうするべき。だから、泣いてわめいて、周囲に自分が見ているものと同じものを見ることを、強要するのである。
それが通じるのは、子どものときだけである。
最後に
この世に存在する世界は一つだけ。しかしその世界は、見る人によって全然違う。ある人によって地獄でも、ある人にとっては天国である。
この事実を認識することによって私たちは自分と他者を分離して、人として成熟していくことができる。
すなわち、自分は自分でこうだけど、人は人で、ぜんぜん違う。その事実を認識するだけで、世界に失望するという幼さをさらけ出すことを防ぐことができる。
最初から見えているものが違うことさえわかっていれば、もっと大人の対応をすることができる。見えている世界は人それぞれ。正しい認識は、まずそこから始まるのである。
出典
『サモンナイト3』