「自他境界」という言葉がある。
自分と他者を区別して意識する「境界線」のことを指す心理学の用語だが、「私は私」で「人は人」を意識することは、健全な自我、そして健全な人生を生きる上でとても大切である。
そこでこの記事では、「自他境界」という概念の基本的な理解を示しつつ、それが一体私たち自身、そして私たちの人生にどのような影響を及ぼしうるのか?書いていきたい。
はじめに
私たちはそれぞれ、「私は◯◯です」という認識を持っている。「私は◯◯です」という認識を持つことで「私は私」で「人は人」と、この世界で自分と他者を分ける境界線、すなわち「自他境界」を認識することができる。
自分と他者を区別することによって私たちは、自分ができることや自分ができないことを認識し、自分が負うべき責任とそうでない責任を区別することができる。自分が関わるべき領域と関わるべきでない領域を、自覚することができる。
自他境界とはいわば、私たちがこの世界で他者と交流し社会的な生活を円滑に行うために備わった機能と言っても良いだろう。
自他境界があやふやになると
ところが、である。何らかの理由で自他境界を認識できなくなってしまう場合がある。
自分と他者を区別があいまいになる。するとどうなるか?それによって様々な問題が生じる。例えば次のようなケースがその例である。
自分を主張できなくなる
自分と他者の境界線が曖昧になることによって、私たちは自分本来の気持ちや考えを尊重できなくなってしまう。そのため、一方的に境界線を侵犯する相手に対して「ノー」を言えず、容易に他人の影響下に置かれてしまう。
他者の感情に影響される
それだけでなく、他者の顔色や気分に無自覚に影響を受け、他者のネガティブな感情ですらそれを「自分の感情である」と誤認識し、自覚できる原因がないのになぜか嫌な気持ちを感じたり、頭がモヤモヤした感じに襲われる。
自他境界は自分と他者を区別するラインである。自分の責任とそうでない範囲を区別する役目を果たしている。だが自他境界があいまいになることで、自分と他者を分かつラインが崩れる。その結果、自分の感情ではない他者の感情までもが一方的に自分の領域に侵入する。
他者に依存される
そのさらなる重要な影響は、他者との境界線が曖昧になることによって、自分を他者に依存させてしまうことである。例えば共依存と呼ばれる「特定の相手の関係に過度に依存してしまう」現象はその典型的な例である。
自分と他者との境界線を明確にすることができない結果、他者によって精神的に巻き込まれやすくなり、自分の人生への侵入を許しやすくしてしまう。
本来なら、「あなたはこれ以上、私に踏み込んではいけません」というところまで、相手の侵入を許可してしまう。その結果、たとえその人物があなたを利用しようとする人物だったとしても、その人物との間で異常な依存関係が生じてしまう。
それは健全な人間関係ではない。搾取する側とされる側といったような、不公平で不自由、そして病的な人間関係に陥りやすくなってしまう。
踏み込ませない一線を認識する
自他境界は私たちに、自分と他者との区別を示し、自分が背負うべきものとそうでないものを示してくれる。自分のものは自分のものだし、相手のものは相手のもの。良いものは良いし悪いものは悪い。そんな健全な意識の土台となるのが自他境界である。
自分の気持ちを素直に感じ、自分がしたいことややりたいこと、自分の本来の感覚を大切にすることができる。それこそが自分と他者を区別する自他境界の機能である。
だが他者との境界線が曖昧になったとき。私たちは自分の気持ちが分からなくなる。好きなことやしたいこと、今感じていることが、曖昧になる。そして、したいこともないことをしたいと錯覚したり、他者によって思うように動かされてしまう。
その状態はまさに、自分を見失っている状態である。だからこそ重要である。「ここまではあなたもOK。しかしこれ以上は私の領域です。踏み込んではいけません」というラインを認識することが。
最後に
「私は私」で「人は人」。
とても当たり前のことのようであるが、この世界は様々な人との関わりのなかで人生が織りなされていく。ときに、自分でも気づかないうちに、他者の意識が自分の意識に何らかの影響を及ぼしていることに気づくことはしばしば起こる。
だが、自他境界を意識できるかぎりにおいて他者がまるごと自分の存在を飲み込んでしまうような事態は避けることができる。そしてそれは自分を自分として。他者を他者として認識し、この世界で「自己」を見失わないための重要事項である。
だからこそ「私は私」で「人は人」。健全な自我、そして健全な人生を生きるために、自分と他者を隔つ境界線を認識することは、とても大切なのである。