縁は来る者拒まず。結局人は出会うべく人と出会うから

愛し合う2人

思いがけぬ出会いを、「邂逅(かいこう)」といい、「遭遇」という。人の縁はまずここから始まる。

かねてより会いたかった人、あるいは好ましい人と出会うことが「邂逅」であり、会いたくない人、あるいは好まかしからぬ人とバッタリ出くわすことが「遭遇」であると言ってよかろう。

ただし、縁の怖いところは、思いがけぬ出会いのそのときには、「邂逅」か「遭遇」かが判然としない。

のちに振り返って、「あの人に出会えてよかった」とか「あいつにさえ出会っていなければ」などと考えるのである。

そう思えば、人の縁はいよいよ人知の及ばざるところで、むしろ妙な期待や警戒をして人生を偏狭にするよりは、来る者拒まずと肚(はら)をくくって出会いをミステリーのように楽しんだ方が得、という気がする。

浅田次郎

なぜこの人と出会ったのか。人生を振り返ると、出会いの不思議さに胸を打たれる。

あの人と出会ったから私の人生にはこういうことがあって、私はこういう人間になった。あの人と出会わなければ今の自分はいない。人生にはそんな出会いがあるものだが、それは予期して、期待して出会った縁ではない。

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出会いが与えられた意味を問う

なぜか知り合って縁があった。それは完全に不可測で、だからこそ人の縁は本当に不思議なものだと思う。

もちろん、縁にも良い悪いがあって、出会った人すべてが、良い記憶になる人ばかりではないのも確かだ。世の中には悪縁腐れ縁、できれば避けたい縁がある。しかしどの縁にも、それなりの理由があるように思える。

袖振り合うも他生の縁。そこには人知の超えた何か必然性があって、だから出会うことになった。そんな気がしてならない。

ご縁がご縁になる理由

結局人は出会うべく人と出会う。となれば、縁をより好みせず、やってきた縁を寛い気持ちで受け入れた方が得だと思う。

出会った縁がどうなるかは分からない。でもそこには何かがある。縁とはそういうものなのだ。

自分が出会いたいと思ってもいない。しかしなぜか出会ってしまった。それ自体が1つのご縁。つまり出会うべきなんらかの理由があるはずである。

すべての出会いにムダはない

こう考えると、嬉しい出会いもそうでない出会いも。全ての出会いに何一つ、ムダがないことに気づく。

つまり大切なのは出会いのビフォア&アフターに気づくこと。その出会いが自分の人生に一体何をもたらしたのか?その出会いによっては自分はどう変わったのか?どんな方向に進むことになったのか?

ここにきっと、全ての意味が隠されているのだ。

出典

『人間の縁(えにし)』