じたばたしたとって、春が来ねえば、へえ花は咲かねぇちゅうこんだ。落ち着いてやるだよ。そうだ。なにもせかせかすることはねぇだ。ゆっくり腰据えて、するだけの事をこつこつやっとれば、それだけのものは、いつか、必ず、身にめぐって来るのだ。
「百足ちがい」より
冬が来ればやがて春が来る。春が来れば花が咲く。そして命が最大限に輝く夏を迎えたのち、枯れ葉が散る秋が来る。
人生も同じく、四季がある。季節を自分の意志や努力で変えることはできない。私たちにできることは、今訪れている季節に自分を適応させ、その季節でしかできないことを、着々とこなしていくことである。
そしてそれこそが人生という長いサイクルを生きていく上で、最も大切なことなのである。
はじめに
人生は思い通りにならない。なぜなら、私たちが生きているこの世界では常に、「時」という絶対的な影響力が、私たちの人生に干渉し続けるからである。私たちにできることは、「時」を知り、自分をそこに適応させることである。
今すぐ花を咲かそうとしたところで、春という「時」が来なければ、花は咲かない。同じく、私たちがいくら、今このタイミングで人生の喜びの花を咲かそうと願ったところで、「時」が訪れなければそれは叶わない。
だからこそ辛抱強く待つ必要がある。「時」が来る訪れることを。
花はやがて咲く。ただし
努力が報われる。夢が叶う。目標を達成する。それらは人生という長いサイクルにおける一つの「点」である。それらが目に見える事象になるまでには、目に見えない長い長い、経緯がある。
今すぐ庭に花の種を植えて水をやったところで、その種が明日に花を咲かせることは非現実的である。必要なことを必要なだけ行ったとしても、それが目に見える事象となるまでは、それが起こるために必要な、「時」を待つ必要がある。
正しいことを正しいタイミングで行ったとしても、その行いが迅速に花開くとは限らないのが、人生なのである。
だからこそ、「時を待つ」。
ただし行動はいつか必ず、その実をこの現実世界において実らす。いつ、どこで、どのような形で実るかは予測ができない。ただ一つわかっているのは、それが必要な時を経たのち、ということだけである。
だからこそ「忍耐」という地味で目立たない美徳が人生においては重大な意味を成す。我慢ができる人はその我慢に応じた実りを受け取るようになっている。我慢ができず、時を待つことができない人は、その実りが完熟するときまで待つことができない。
「待つ」という自発的な行動は、人生という長距離レースにおいて、とても大切な「選択」なのである。
最後に
近頃思う。「思い通りの人生」など、ほんとうにつまらない、と。
喜びを最大限に味わうためには、悲しみが必要だ。成功の果実を味わうためには挫折や困難が必要だ。長い人生、本当の意味で幸せを噛みしめるためには、苦難や不幸が必要だ。
この意味で人生の挫折や停滞、時が訪れることをじっと待つ雌伏期間というのは、長い人生において、幸せや喜びを噛みしめるために必要不可欠な経験なのだろう。
そう、人生の真髄は過程の中にある。その長い道のりにおいて、「すべての経験に意味がある」ということは紛れもない真実なのだと、強く感じるこの頃である。人生は思い通りにならないからこそ意味がある。つまずくからこそ、意味があるのだ。