熟した果実は早く落ちる。
ブッダ
物事には旬がある。旬が過ぎればそれは落ちていくだけである。
だからこそ「長い目で見る、考える」という習慣を持つことはとても大切である。人生は結局のところ、短期レースではなく長期レースだからである。
人生において「最高のとき」が訪れていないのであればそれはそれで構わない。「最高のとき」とはターニングポイントである。上昇トレンドから下降トレンドへと転じる、転換点である。だからこそ人生で最高を目指してもいいが、その実現を急ぐ必要はない。
人生は長い。人生を成長曲線のイメージとともに考えておくこと、すなわちいつ旬を迎えるかを考えておくことが大切である。人生は結局、短いようで長いのだから。
はじめに
「早熟」という言葉がある。若い頃から何らかの才能を発揮し、「頭一つ抜ける」状態になることを意味する言葉だが、早熟とは実際のところ、凡庸や晩熟よりも人生難易度が高いことは知る人ぞ知る現実である。
早熟は早く熟す、すなわち早く人生でその才能を開花させ、頭角を表す。人よりも成長が早くその活動は人々より注目集める。
そのため、若い時代は「我が世の春」状態を丸ごと味わうことができる。この意味で、もしも人の人生が20年から30年であるならば早熟にはメリットしかないのかもしれない。
だがかつては「人間50年」だったのが今や「人間80年」の時代である。早すぎる成熟を無条件に賛美し、喜ぶことは難しい。「熟した果実は早く落ちる」という言葉が示すとおり、成熟の先に待ち受けるのは衰退だからである。
「成熟していない」意味
成熟していないということは、まだまだ成長していく余地があるということである。人生において最高の状態を実現できていないということは、これから先もまだまだ、何かを経験し、人生が開いていく余地があるということを意味する。
だが、もはや人生において絶頂が訪れてしまったのであれば、その先に待つ必然は下り坂である。
上り坂を登っていき、その道筋を楽しむために知性は必要ない。だが、下り坂を下り坂として注意深く進むだけでなく、かつその道程を楽しむためには、知性だけでなくそれ相応の精神性も求められる。
この意味で早熟はイージーモードというよりも、むしろハードモードと考えた方が適切である。
人生の絶頂は、むしろ必要ない
人生でこれ以上ないほど「最高の現実」の訪れを私たちは夢見る。だがそんな日が訪れることが本当に素晴らしいことなのか。人生が「成功しました、人生はめでたしめでたしになりました」というほど単純な仕組みであるならば、それは確かにそうだろう。
だが現実は違う。人生における全ての事柄は一時的な状態であり、状態は循環する。それはまさに、「一寸先は闇」であると同時に、「一寸先は光」という言葉の通りである。
だからこそ人生を生き急ぐ必要はない。早すぎる成功は必要ない。「望むことすべて」を今すぐ実現できなくてもいい。人生の不満は不満として残しつつ、現実を一歩一歩、無理なく自然なタイミングで、向上させていけばいい。
「楽しみをとっておく」という考え方は、長い人生で退屈しないための、そして絶望しないための、大切な知恵である。そしてそれは、人生で「あえて」絶頂を迎えないための知恵でもある。
最後に
ジョン・レノンの歌に、「グロー・オールド・ウィズ・ミー」という名曲がある。個人的には、ジョン・レノンの歌のなかで一番好きな曲なのだが、この曲のなかに「最善のときはこれからである」という一節がある。私はこの歌詞がとても好きだ。
それはこれから訪れる、最高の幸せを予感する歌詞だからなのだが、実際の現実においては、最高の幸せなど訪れないほうがいいと私は考える。
人生において常に最高を目指すのではなく、場合によっては最高を目指さず最高の一歩手前を意識する。それと同時に人生にほどほどの不満をあえて持ち、それを解決しようとしない。自分自身と現実、そして人生が完璧でないことを許容する。
「最高」「完璧」を実現すれば、すなわち「陰極まれば陽に転ず」るが同時に「陽極まれば陰に転ず」るからである。もしも人生の絶頂を迎えるのであれば、それは「私は十二分に生きた」と心から思えるときで構わない。私はそう、考えている。
出典
『ブッダのことば』