「もしも」を手放したときに始まる、本当の人生

空の下に立つ女性

「◯◯があったなら」

「△△だったなら」

「XXできたなら」

タラレバを考えることが無駄とは言わない。だが、有意義ではない。

生まれ、育ち、得意なことや苦手なこと、頑張れることや頑張れないこと。私たちはそれぞれ、自分という条件のもとに生きている。

だとすれば、私たちにできることは何だろうか。それは、自分が持っているものや与えられているものを活かして生きることではないだろうか。

他人の人生を生きることはできないし、持っていないものを持っていることにもできない。

ならば、自分に与えられた条件の中で、自分なりの可能性を見出していくしかない。そうすることで、それは自分だけが歩むことができる、唯一無二の人生になる。

そしてそれこそが、「自分の人生を生きる」ということなのではないだろうか。

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「なりたい自分になれる」神話の限界

「努力すれば報われる」

「人生は、自分しだい」

「夢の実現を信じて追えば、叶う」

確かに、人生にはそうした一面がある。

努力によって人生が大きく変わることもあるし、自らの選択によって道が開けることもある。ただし、努力は万能ではない。努力は人生を動かす力を持つが、それだけで全てが決まるわけではない。

どれほど努力しても届かないものはある。どれほど望んでも手に入らないものはある。私たちはやがて、自分の意思や努力だけでは変えられない現実に出会う。

そして私たちは、「なりたい自分になれる」神話の限界に、気づかされる。しかし、それは人生の失敗を意味しない。

なりたい自分になれなかったとしても、夢が叶わなかったとしても、その人生が価値を失うわけではない。なぜなら、人生の価値は「何者になれたか」だけで決まるものではないからだ。

「ないもの」ではなく「あるもの」に目を向ける

私たちには、この世に生まれたその瞬間から、異なる条件や限界がある。だからこそ、人生を「なりたい自分になれたか」という基準だけで評価することはできない。

それを人生評価の絶対的な基準にし続けている限り、私たちは自分の人生を必要以上に低く見積もってしまう。それは、どこか偏った評価軸である。

そうではなく、こう考えてみる。

「自分には自分という、条件がある。それは変えられることもあるけれど、変えられないこともある。それならば、自分が持っているものや、与えられているものを活かして生きてみよう」

持っていないものは使えない。選択肢がたとえ限られていたとしても、私たちは今、自分にあるものを使い、生きていくほかない。

そして、私たちの生き方は、自分が持っているものによって形づくられる。

才能も、性格も、環境も、経験も。だが、他に選択肢がないからこそ、それをするしかないからこそ、そこには自分らしさが宿る。

弱みは、裏返せば強みになる

自分が持っているものを、他人が評価してくれることもあるし、評価してくれないこともある。

だが最もそれを間近で見て、感じて、適切に使うことができるのは、自分以外にはいない。人生において、24時間365日、常に離れずそこに存在し続けるのは、自分だからだ。

自分が持っているものに光を当てること。使い道を見つけること。価値に気づくこと。それによって人生は、少しずつ「自分だけの輪郭」を持ちはじめる。

だからこそ人生のテーマの一つは、自分が持っているものや与えられているものに気づき、それを活かす方法を身につけることなのだろう。

もしかしたらそれは一見、

「こんなもの、何の役に立つんだ?」

「使い道なんて、ない」

と思えるかもしれない。

だが、どんなものにもプラスの側面とマイナスの側面がある。

例えば、性格。慎重さは優柔不断にもなる。頑固さは信念にもなる。繊細さや傷つきやすさは、人への共感力にもなる。

問題は、その性質そのものではない。それをどう見るか。どう使うかなのである。

最後に

私たちはつい、自分の人生を「成功した誰か」との距離で測ろうとしてしまう。

だが本当に大切なのは、誰かになれたかどうかではない。自分に与えられたものを、どれだけ使い切ったかである。

生まれ育った環境。持って生まれた性格。得意なこと。苦手なこと。成功した経験。失敗した経験。人生で起こることのすべては、自分という存在を形づくる材料である。

だからこそ、自分が持っているものを知り、活かし、最後まで使い切ろうとしたとき、私たちは「自分の人生を生きた」と言えるのではないだろうか。

人生との折り合いは、その先で見つかる。そしてそのとき人生は、誰とも比べることのできない、自分だけの物語になる。