現実という言葉はとても大切な言葉である。
現実とは今すでにそこにある現状であり、現状を正しく理解することによって私たちは、現実と向き合い、そして適応するための身の処し方を適切に選択することができる。
だが現実という言葉はときに、自分自身の本心から目を逸らし、妥協や思考停止の言い訳の言葉として使われてしまう。
確かに現実を認識し受け止めること、そしてごまかさずに向き合うことも大切である。だが現実とは変更不能な永久の真理ではない。現実は変わりうるものであり、私たちが変えることができるものである。
現実を変えようとする意図、そして意思を持つことによって。
はじめに
私たちが決めなければいけないこと。そして、自分以外に答えを出せないこと。それこそが「自分の生き方」である。
「自分の生き方」について、「◯◯をしなさい」と言ってくる人はたくさんいるし、そうしたアドバイスや意見については、積極的に耳を傾ける価値がある。知ることは可能性を「開く」きっかけとなるからだ。
それと同時に忘れてはいけないのは、そうしたアドバイスや意見は参考情報であって、結局のところ「自分の生き方」の結果責任は最終的に自分自身が負うことになるということである。
繰り返しになるが、人の話は心を開き耳を傾ける価値がある。だが、その話が自分にとって良いことなのかそうでないのか。最終的には私たちが自ら、判断する必要がある。そして判断を下す上で最も重要な指針となるのが、「自分の本音」である。
自分の本音は、「ワクワクする」「理由や根拠はないけれど、なぜかいい感じがする」「息苦しい感じがする」「それをしないほうがいい気がする」などといった、非言語的な感覚として私たちに語りかける。
それは「気のせい」と思えばそう考えることもできる。だがそのかすかで微妙な存在は確実に存在し、言葉ではなく感覚として、私たちに語りかける。気づいた「自分の本音」を尊重することが結果として「自分の生き方」をする上で最善へと導いてくれる。
それがこの記事の趣旨である。
本音はウソをつかない。そしてウソをつけない
できることはできるし、できないことはできない。楽しいことは楽しいし、楽しくないことは楽しくない。「自分の本音」がそれを教えてくれる。そこで「できないことをできるようにしよう!」と考えるのは私たちの「頭」である。
「持っていない」何かを「持っているもの」に変えるための努力は大切だし、そこに「前進」や「成長」が伴うこともまた、確かな事実である。「前進」しようと努力し、「成長」することは尊いことである。だがそれは程度の問題である。
「個性」という言葉を使えばそれはマイルドな印象になるが、私たちには最初から「持っているもの」と「持っていないもの」がある。さらに言えば自分次第で「持つことができるもの」がある一方、「どうしても持てないもの」も、ある。
持っていないものは持っていない。そして持てないものは持てない。それならばそこに理由があると考え、「自分の本音」を頼りに持っているものに意識を向けてみる。そして「自分が持っているものをどのように活用するか?」と視点を変える。
それは「自分の生き方」に続く道。「私には何もありません」と思っていたとしても、現実的にそう見えたとしても、それは誰かにそう思い込まされているか、自分自身でそう思っているだけである。
それが何なのか、本音が教えてくれる。心の中からそれとなく生じる「楽しい」「楽しくない」「なんとなく」「ワクワクする」といった非言語的な感覚が、そのヒントを教えてくれる。
自分のことは確かにわかりにくい。だが自分のことは結局のところ、自分自身が一番分かるようになっているのは不思議な話である。
人生はそもそも、計算外のことが起こる
頭で考えたことは良く言えば理論、悪く言えば計算である。物事を道筋立て、理論を持って考えることは大切だが、理論は結局理論であって、必ずしも人生という非論理的なものに対して、適切な答えをアンサーしてくれるとは限らない。
人生はつねに「予想外」「想定外」「計算外」のことに見舞われる旅路である。ゆえにいくら理論的に「私はこのような生き方を選ぶことが合理的です」と考えたところで、それは最終的に「机上の空論」に陥りやすい。
合わせて私たちには感情というものがある。「頭では分かっていても」どうにもならないことがある。もし私たちが完全に、自分の感情を自分自身の意思で制御できるように錯覚したところでそうは問屋が卸さない。
だからこそ「なぜ、社会的地位も名誉もあるにも関わらず、なぜそのような行動をしてしまったのですか?」という論理的には理解不能なニュースを、私たちが日夜目にすることは格別不思議なことではない。危うさは常に潜む。
現時点において人生の成功者であれどうであれ、人生は理論や計算とは別の要因によって、突如として変わってしまう可能性がある。ゆえに私たちは、感情という人間的な存在を軽視してはいけない。
それは遅かれ早かれ露出する。しかも、思わぬところで。だからこそ自分自身の本音を知ることはとても大切である。そして本音を尊重し、大切にし、折り合いをつけるのである。
最後に
ここにある若者がいる。若者は「自分が何者になるか」を模索している。そのかすかなヒントをそれとなく感じつつも現在は現実的な選択をするために、将来性のある食える仕事をするための学校に通っている。確かにそれは堅実だし現実的である。
だが若者は、そこで学ぶことがどうにも自分に向いているとは思えず、「私はほんとうは、別のことがしたい」ということを、その気持ちを否定できないほどに感じている。
ここで問題となるのは現実に適応しようとするあまり、「どうしたいのか?」という若者自身の本音がなおざりにされている、ということである。
結局のところ人にはそれぞれの人生があり、その人生でどう生き、何を選ぶのかは、本人が決めることである。そして、その行く先とその先に待ち受ける人生がどうだったのか。結論と評価は本人だけができることである。
世間や何でもいいが、「あなたは立派です」「あなたは成功しています」と言われたところで、当の本人が「これは私の人生ではない」という気持ちを否定できないならばその人生は本人にとって、心から「これが私の人生でした」と納得はできないだろう。
その逆も然りで、傍目からは「なぜ、あなたはそのような個性的な生き方をしているのですか?」と見えたとて、当人が社会常識やルールを尊重し他者と共存しているならば、その生き方は十分に成功していると言える。
だからこそ問われるのは他でもない、私たち自身の本音である。ほんとうにそれでいいのか。真剣にこれからのことを、現実ではなく本心によって、考える必要があるだろう。
そして厄介なことに、この世界には一人だけ、絶対に騙すことができない人がいる。それは他ならぬ、自分自身である。だからこそ最終的に重要なのは、いかに自分と折り合いをつけた生き方ができるかどうか、なのである。