喜びは喜びを呼び、幸せは幸せを呼ぶ。

瞑想しています

苦労、苦労と申しても、悪い苦労気の毒ぞ、善き苦労花咲ぞ。花咲いて実結ぶのざそ。人民苦しみさえすればよいように早合点しているなれど、それは大間違いざぞ。神の道無理ないと、くどう申してあろうがな。

日月神示

「喜ぶ」という習慣を持つことは人生に幸せを呼び込むための秘訣である。

不平不満は更に不満を呼び、嬉しいことよりも嬉しくないことがますます、目の前に引き寄せられる。だが、そこで心の在り方を自分自身の意図的な選択によって改め、来たことをまず喜んでみる。何が起こっても喜んでみる。

すると起こる出来事が少しずつ、変わってくる。そして、「喜ぶ心は喜びを生む」という現象に気づくのだ。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

はじめに

率直な話だが、あなたには頑張っても「楽しい日々」「幸せな人生」が実現できずに悩んだ経験はないだろうか?もしくは今現在、「私は毎日頑張っています。でも現実は・・・」と感じてはいないだろうか?

頑張ってすべてがうまくいけば、この世界の大半の人々の人生は幸せが保証されるはずである。だが、現実の問題として「頑張ってもうまくいかない」結果を見せつけられることもしばしばである。

ということは、である。頑張ることそれ自体は尊い行いだし、大切かもしれない。だが、それは人生に幸せの花を開かせるための条件とは限らないと理解するのが自然である。

ひたすら頑張る。それはある意味での思考停止である。人生に幸せを呼び込もうとするならば、ただ頑張るだけでは不十分である。頑張る方法を変える必要がある。

どうやって?そこで重要となるのが「何を、どのように頑張るか?」という視点である。すなわち楽しめること、そして喜びを感じられることを、頑張るのである。

夢中になれることほど楽しくてうまくいく理由

物事の真髄を極めた人にとっては、「努力」という概念がないということが知られている。

それが楽しい。それをしていると気がつけば時間があっという間に過ぎていく。「私は頑張って取り組んでいます」という意識などなく、ただそれが楽しいので夢中で取り組んでいる。すると結果的にその道が極まって、唯一無二のレベルに達し、評価される。

楽しいことに夢中になる。そこに努力や義務は存在しない。当然、「私は頑張ってそれに取り組んでいます」という意識もない。楽しいことをするから楽しいことが引き寄せられる。「好きこそものの上手なれ」は理想論のように聞こえるが、それは確かな現実である。

一方。「私はこれだけ頑張っています」と意識してしまうことほど、「頑張っただけの成果」が得られない傾向があることに、あなたは気づいているかもしれない。そこにはある種の「義務感」や「努力感」が漂う。ゆえにそれは、喜びを運んではくれないのである。

「私はどのように感じているか?」はという指針

結局のところ、重要なことは心の姿勢である。楽しいことは理由なく楽しい。だがいくら自己正当化しようが、楽しくないことは楽しくない。それを無理強いしているとき、楽しい結果は引き寄せられない。

私たちは言葉や振る舞いで、誰かをごまかしたり、だますことはできるかもしれない。だが忘れてはいけない。自分だけは絶対に、だますことはできない。苦行と感じることを無理に継続しても、そこからさらに苦行が引き寄せられる。

どこかおかしいと感じることはやはり、それをするのはおかしいのである。だからこそ自分の本音は大切にしていい。「私はどのように感じているか?」という指針は、これからの時代に最も重要で、尊重すべき指針である。

最後に

「無理がない」。それは幸せな人生を送る上でとても大切な視点である。

自分にとって無理がないということは「それが自然にできる」ということである。自然であるということは違和感がないということであり、違和感がないということは、それをすることが無理がなく、続けられるということである。

無理なことはどう言い繕おうが無理である。それが辛く、何か不自然で無理があるように感じられるなら、それは自分がするべきことではないのである。

もちろん、人生には無理なことに挑戦し、失敗するという経験をすること、「嫌なことでも我慢して続けましょう」という経験は学びと気づきの過程である。だがそれらは一時期に経験すれば十分である。

なぜなら人生には人それぞれ、嬉しいことがたくさんある。自分が嬉しいと思うことを素直に肯定する。すると、嬉しいことをしているときほどさらに、嬉しいことが続いていくという現象に、気づくことができるだろう。

出典

『日月神示「岩の巻」第5帖』