運が良い人が持つ「見えない守り」

夕日を浴びる女性

あなたは「運が良い人」と聞いて、どんな人を思い浮かべるだろうか?

もしかしたら、一夜にして宝くじが当たり億万長者になったり、理想のパートナーと巡り合ったり、誰もが羨む「幸運な出来事」が次々に起こる人を思い浮かべるかもしれない。

確かに、そうした華やかな幸運も「運が良い」ことの一面だ。だが、本当に運が良い人とは、それだけではない。実は、本当に運が良い人とは、気づかないうちに「災いから守られている人」である。

目に見えないけれど確かな守りに包まれ、人生の大きな不幸や危険を回避できている。そうした「見えない幸運」こそが、真の運の良さなのだ。

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はじめに

私たちは、つい目に見える「幸運」ばかりに目を奪われがちである。

昇進した、賞を取った、結婚できた、宝くじが当たった。そうした目に見える出来事が起きた人を、私たちは「運が良い人」と見なす。だが、運とは本当にそれだけだろうか。

一見、華やかに見える出来事の陰には、静かに訪れる「守られている日常」という、もう一つの運がある。

たとえば、何も起こらなかった日。何も失わなかった日。ただ穏やかに一日が終わった日。こうした「平凡」に思える日は、そこに何らかの価値があるとは思えないかもしれない。

だが、何も起こらなかったこと。何も失わなかったこと。心穏やかに過ごせたこと。そうした日々の「平凡」にこそ、本物の運の良さが宿っている。

「平凡」という奇跡

当たり前のように思えるその「平凡」は、実のところ当たり前に起こっているわけではない。それは、ある種の奇跡である。

災いは、いつも予告なくやってくる。そして、それが起こったとき、私たちはようやく気づくのだ。あの何気ない日常は、決して当たり前のものではなかったのだ、と。

私たちが何事もなく日々を過ごせている、その裏には、「回避された災い」の存在がある。
だが、それは目に見えない。意識しない限り、気づくこともできない。

だからこそ、「運が良かった」と実感するのは難しいかもしれない。だが、確かに言えることがある。私たちの人生には、「守られている瞬間」がいくつも存在しているのだ。

失敗に見える出来事の、もう一つの意味

たとえば、あなたが転職活動をしているとしよう。ある会社に応募し、最終面接まで進んだ。あなたは「絶対にこの会社に内定をもらう」と心に決め、万全の準備で当日を迎える。

ところが、なぜかその日に限って体調がすぐれない。おまけに、会社へ向かう途中で雨が降りはじめ、空もどんよりと曇っている。

「意志の力」で気持ちを奮い立たせ、なんとか面接を受ける。だが、緊張のあまり、あり得ないほど不適切な発言をしてしまい、結果は不採用。

そのとき、あなたは落ち込むかもしれない。「なんて私は運がないんだろう」と。あの出来事だけを切り取って見れば、そう思うのも無理はない。

しかし、後日になってあなたは知ることになる。一見すると条件も良く、魅力的に見えたその会社は、実はコンプライアンスを著しく軽視しており、退職者が相次ぐ「要注意な職場」だったということを。

起きなかった出来事が、「運がある」証

運が良い人は、何かから守られ、危険から遠ざけられている。

たとえば、間違った人や会社と縁ができそうなとき。あるいは、危険な出来事に巻き込まれそうになったとき。それらを事前に避けるために、「なぜか」自分でも不可解な行動を取ってしまうことがある。

その結果、一時的には「運が悪かった」と感じる場面に直面するかもしれない。だが、それは「そうならなくてよかったから」なのかもしれない。つまり、「災いに出会わなかった」という形で、運は確かに発揮されているのだ。

こうした「幸運」は目に見えにくい。運が良い人とは、必ずしも目に見える幸運が訪れる人だけを指すわけではない。

悪い環境や縁から遠ざけられること。厄介事が起こらないこと。「今日も無事に一日が終わった」と思えること。それこそが、十分に「運が良いこと」なのである。

最後に

「運が良い」ということは、「目に見える幸運」が訪れることだけを指すわけではない。

当たり前のような一日を、静かに、しかし着実に重ねることができる。なぜか、悪い出来事や人、環境から遠ざけられる。その結果、人生で致命的なダメージを受けずに済む。こうしたこともまた、「運が良い」と言えるのではないだろうか。

ただし、こうした運の良さは、「目に見える幸運」とは異なり、気づくための感性が必要である。

だからこそ、「何も起こらない」ということ。日常の「当たり前」が「当たり前」としてそこにあるということは、とてもありがたいことであり、実はとても幸運なことなのだ。

その事実に気づこうとすることこそが、何かから守られている人になる第一歩なのである。