あなたには、「一生懸命努力しているのに、まるで報われない」と感じる瞬間はないだろうか。
どれだけ頑張っても結果がついてこない。周囲に認められず、自分だけが空回りしているように思える。そんなとき、心が折れそうになることもあるだろう。
だが、そこで諦める必要はない。たとえ努力が報われなくても、その努力自体に意味があるからだ。ただし、その意味を本当に理解するためには、今すぐ手放したい考え方がある。これがこの記事のテーマである。
この記事では、不毛な努力に精神をすり減らさないために知っておきたい、「手放したい3つの考え方」を示していく。
はじめに
「人生即努力、努力即幸福」
これは、自らの意思と努力によって日本の大富豪となった本多静六博士の言葉である。
確かに「良い人生を送るため」に努力は欠かせない。目標を持ち、そこに向かい一歩ずつ進んでいく。努力してこそ、現実が目標に近づく。
だが実際問題、努力が期待を裏切ることもある。どれだけ努力しても、必ずしも報われるわけではない。この現実に直面すると、多くの人は自分の努力不足を責めたり、努力そのものを「無意味」と否定したくなる。
しかし、本当に努力に価値がないのだろうか?報われなかったとしても、それは時間の無駄だったのだろうか?報われなかった(ように見える)努力から得られる学びや成長は、目に見えにくいかもしれないが確かに存在する。
もちろん、その努力が「報われない」と感じたとき、私たちの心は疲弊する。そこで無理をし続けると、自分自身を見失いかねない。
だからこそ知っておきたいことがある。自分を追い詰めない努力をするために、手放すべき考え方があるということを。それが次の3つだ。
1.完璧主義
2.他人評価
3.結果主義
これらの考え方を手放すことが、報われない努力を次に活かし、より豊かな人生を歩むための第一歩になるだろう。では、ひとつずつ詳しく見ていこう。
完璧主義を手放す
完璧主義。それは「ミスをしてはいけない」「失敗は許されない」と自分を厳しく律する心のクセを指す。
完璧を目指すあまり、私たちは努力するほどに「もっとできたはず」「あれもやらなければ」と自分を責めがちになる。自分に求める厳しさが限界を突破してしまうからだ。
確かに完璧主義は、ときに素晴らしい効果をもたらす。しかし、その一方で自分を追い詰め、努力の持続を難しくもする。完璧でなければ価値がない。
だからこそ、失敗や未達成があるたびに自己否定に陥ってしまうのだ。問題は、人生において完璧は不可能であり完璧な人生など存在しない、ということだ。
努力とはあくまで「成長のプロセス」であり、途中の失敗も含めて学びとなる。だからこそ、完璧主義を手放し、失敗や挫折を許容することで、努力の価値を適切に評価できる。
それは同時に、自分に優しくなることでもあり、次の一歩を踏み出すための余裕を生む。
たとえその努力が完璧でなくとも、「十分に良い」「自分のベストを尽くしている」と認められれば、心の負担は軽くなり、努力に否定感を持たずにすむ。そうして、まだまだ先へ進むことができるはずだ。
他人の評価から自由になる
私たちは誰でも、他人から認められたい、好かれたいという欲求を持っている。
それは決して悪いことではない。むしろ自然な感情だ。だが問題は、他人の評価を絶対の評価にしてしまうことである。
他人の評価を絶対視し、振り回されてしまう。それによって、自分が主体となって努力しているその行動が、「他人からどう見られるか、どう評価されるか」にすり替わる。そしてそれに振り回され、一喜一憂してしまう。
「◯◯さんが喜んでくれなかった」
「XXさんが否定した」
「社会が認めてくれないからだめだ」
このように、他人の評価に振り回されることによって、自分自身の感覚や価値観を見失ってしまう。
だが、他人の評価は他人のものだ。それは参考にすべきものもあるが、あくまで私たちの人生、私たちの努力の意味や価値を決めるのは、他人ではなく自分自身であるはずだ。
他人の評価に縛られてしまうことは、自分の心の自由を誰かに差し出してしまうのと同義である。それは、なぜ努力をするのか、その意味さえ、かんたんに消してしまう。
努力とは、たとえ誰かに認められなくとも、自分で納得してこそ意味がある。そして「私は、それをする」という自覚こそが、努力のエネルギー源である。
自分で納得できる。だから、その努力を続けることができる。続けることができるから、それが成功であれ失敗であれ、それは成長につながっていく。
他人の目を気にしすぎず、努力は自分の内側と会話をして行うものだ。それが、自分にとって大切な価値を尊重することでもある。その努力の動機は、自分でいいのだ。
結果に執着しない
私たちは努力する。そしてその成果として結果を気にする。それはそれでいい。
目に見える形で良い結果が出れば自信になるし、努力した意味をより実感しやすい。だから、結果を気にするなら気にしてもいい。だが、ここで「結果がすべて」と思考を飛躍させてはいけない。
「結果しか価値がない」と考えるのは、「白か黒」の思考法であり、努力そのものの価値を自ら消してしまうことになるからだ。
結果が出ないと、自分のしてきたことに意味がないように感じ、不安や焦りに襲われる。やる気を失い、何もできなくなる。これらはすべて、結果そのものへの過剰な執着が原因だ。
繰り返すが、結果を求めていい。しかし同時に、結果に至るまでの「過程」も大切にしなければならない。
過程とは、日々の積み重ねを指す。失敗や試行錯誤。それは、結果という目に見えるものではなく、日々の小さな歩みである。
「努力をする」という過程を経て私たちは何かを学ぶ。それは今すぐ役に立たないかもしれない。だが、人生のどこかで突然、役割を果たす。だからこそ、たとえその努力が失敗に終わっても、結果にならなかったとしても、その努力は決して無駄にはならない。
しかし、白か黒か、成功か失敗かと結果に執着し、努力を結果だけで評価してしまうと、努力で得られた見えない気づきを得るチャンスを自ら捨ててしまうことになる。その本当の価値に気づかずに。
努力の価値は、結果だけでは測れない。だからこそ、努力そのものに意味を見出し、過程を大切にすることが必要なのだ。
努力を自分で無価値化しないために
努力は、それ自体に意味がある。ただし、その価値を認めるためには、私たち自身が手放すべき考え方がある。言い換えれば、努力を自ら無駄に変えてしまう思考のクセだ。
完璧主義。他人の評価。結果主義。これらへの固執が、私たちの努力を、時に無価値なものへと変えてしまう。だが人生に無駄なものはない。
たとえ失敗のように見えても、無駄だったと感じても、それがいつ、どこで「必要だった」と気づくかは誰にもわからない。
だからこそ大切なことはシンプルである。それをするか、しないか。それを私たち自身で選ぶのである。
自分で決める。自分でやる。自分の心がそれを決めたなら、その努力は結果に関わらず、やる価値のある努力なのだ。
最後に
努力は必ずしも報われない。頭でわかっていても、結果が気になって、その努力を「無駄」と感じてしまうこともある。それでいい。
だが同時に、「無駄ではない」ということも確かだ。たとえ努力が報われなくても、その努力自体に意味がある。だから、その努力は未来のどこかであなたの糧になる。
だからこそ大切なのは、結果だけに囚われず、今この瞬間の努力そのものを認めること。完璧でなくてもいい。他人の評価と違ってもいい。ただ、自分のペースで進むこと。
努力は自分自身で選び、積み重ねていくもの。大切なのは、自分自身が納得し、価値を感じること。価値に気づくこと。それで十分だ。その歩みは、未来のどこかでつながっていく。それは決して、どこかで、意味を成すのだ。
この記事が気になった方におすすめ
