少年は希望でいい。子は夢でいい。しかし「少年」が「男」になるときは、いろいろなものでズタズタに傷つきながらも立たなければならない。親も理想や夢だけを追っていたら、生活できない。子を守れない。
見城徹
大人と子どもの違いを端的に分かつもの、それは現実への認識である。
子どもは子どもで、自分自身に対して。世界に対して。自由で壮大な夢を抱く。
それはある意味、現実を知らないからこそ抱ける夢であり、ときに、その子どもの夢こそが現実を打ち砕き、世界を変える力を持つ。
しかし、子どもが抱く夢や希望の多くは頭に描く空想のままで終わることがほとんどだ。
ここで、その事実を受け入れることができる人は現実対処。夢や理想はとりあえず横においておいて、現実に適応することを選択する。
つまり、大人になることを選択する。
大人になるということは、ある意味、自分の夢や希望を捨てて、今目の前の現実を何より優先することである。
自分はこんなふうに生きたい。こんなことを実現したい。そんな夢や希望を持ちつつも、今目の前の生活を安定させること。パートナーや子どもに対して責任を果たすこと。
そんな、現実を何よりも優先する。
だから、生きていくために綺麗事など必要ないし、現実を無視するような、非現実的な空想に浸ることはない。
この意味で、大人になるということはある意味、非常に味気ない。
しかし、周りに誰も助けてくれる人がいなくて生きていかなければいけないならば、大人になることは避けられない。
生きていくこととはすなわち、現実への適応だからである。
逆に、ずっと大人になることを拒み、子どものままでいたいのであれば、自分を守ってくれる大人が必要である。
つまり、誰かが非現実的な夢や希望を抱けるということは、それをさせてくれる大人が周囲にいる、ということを意味する。
自分でその事実に気づけるうちはまだ、救いがある。
しかし、誰かに守られているにもかかわらず、非現実的な希望や願望を口にし続けるのはかっこよくない。
子どものままでいることを選ぶのか。それとも現実と向き合って大人になるか。ここに、人としての重大な分かれ道が待っている。
出典
『読書という荒野』